一九五〇年代の末、アメリカでジャマイカ系の歌手ハリー・ベラフォンテによる「バナナ・ボート」が大ヒットした。中米ジャマイカの港湾荷役夫の労働歌である。中学生の私は、出だしの“デー・オー・デー・オー・オー・オー”という意味不明の叫びが気に入っていた。ベラフォンテの英語はひどい訛りでほとんど聞きとれなかった(米英で何年か暮らした今でもほとんど聞きとれない)。強烈に輝く太陽で目眩いを感じさせるようなカリブ海のリズムに魅かれたのである。
これを夏休みに信州の母の生家で気持よく朗々と歌っていたら、小学校長を引退し農業に従事していた祖父が厳しい顔で私に言った。「オメエみたよなもんを太陽族っちゅうだ」。父が「強力伝」で直木賞、石原慎太郎氏が「太陽の季節」で芥川賞、と一緒に受賞していたから、太陽族が昔からの公序良俗を無視して無軌道な行動をする若者たちを指す、ということは知っていた。敗戦後数年してからGHQの洗脳が効き始めたのか、日本的なるものを軽侮しアメリカ的なるものを崇める、という風潮が我が国を席巻していた。これを祖父は不快に思っていたのだろう。実際私自身、幼い頃に気象台官舎の石塀の上に坐り、お堀沿いの広い道路をスチュードベーカーなど色とりどりの米車が、端をよたよた走るオート三輪やリヤカーを、颯爽と追い抜いて行くのを見ていた頃からアメリカかぶれだった。中学校で英語を習い始めると、眠っていたアメリカ憧憬が目を覚まし、歌謡曲や邦画には目もくれず、エルビス・プレスリーやポール・アンカなどにしびれ、「シェーン」や「地上(ここ)より永遠(とわ)に」など米映画にはまっていた。
祖父はしばらく間を置いてからこう言った。「わしが七歳の時に日清戦争が始まり、その十年後に日露戦争、その十年後に第一次大戦、終って約十年後に満州事変が始まり、そのまま大東亜戦争が終るまで十五年間はずっと戦争だった。わしは運よく死ななんだが、教え子たちは大勢死んじまった。広島逓信局長だった弟は原爆で死んだ。平和なんちゅうもんはなあ、戦争の合間のちっとばかのもんだぞ。大事にしねえといけねえ」。生意気盛りの私もさすがにシュンとならざるを得なかった。
祖父のこの思い出話を私は夕食後に中高生だった三人息子に話した。彼等は「気付かなかったけど確かにほぼ十年ごとに戦争に巻きこまれていたんだ。でも、ひいおじいちゃん、よく戦争で死ななかったね」と言った。「日清戦争時はまだ子供だった。実はひいおじいちゃんは大変な苦労人でね。貧農の家に生まれ、旧制中学に入ったが間もなく両親を亡くした。幼い二人の弟を食べさせるため中学を中退し、小作をしながら勉強を続け、検定でまず中学卒業資格をとり、その数年後には長野県師範学校(今の信州大学教育学部)の卒業資格をとって、小学校教師となった。一家を支えていたから徴兵を猶予され戦争に行かずにすんだんだよ」
祖父母や父母がしてくれたこのような話は私に、会ったこともない御先祖様への親しみをもたらし、懸命に生きた彼等の命の先に今の自分があることを実感させてくれた。私もできるだけ息子達に先祖の話をしようと思っている。「幕末に尊王攘夷の水戸天狗党が、上洛を目指し中山道を諏訪まで来た。幕府の命で諏訪藩と松本藩が和田峠で迎え撃った時、君達の六代前、ひいおじいちゃんのひいおじいちゃんが、諏訪藩の足軽鉄砲組長として敵将を倒した。ところがその功を上位の武士に横取りされてしまった。これが藤原家代々の無念怨念となっている」「それで戦いは」「負けた」「ナーンダ。地元で戦って負けるなんてよほど弱い藩だったんだね」。横から女房が口を挟み、「藤原家って随分くだらないことを怨むのね」と無礼非礼失礼なことを言った。
時には女房も先祖話に加わる。「ママのおじいちゃんはね、『一日に一ページも本を読まない者は動物と同じだ』が口癖だったのよ。そのせいか子供達は皆、本好き。三女である伯母は七十になっても、『一冊の本を三回読み返せばしっかり頭に入る』と言って毎日の読書を続けていたの」。またある時は、「ママのおばあちゃんが九十歳の頃、長生きの秘訣を聞いたの。十一人も産んで二人を亡くしたという大変な人生だったのにとても元気だったからね。そしたら『クヨクヨしないことだよ』と言ったの。どんな辛いことがあっても、悲観に沈まず楽観的に生きなさい、ということだと思ったわ」。
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