幼少の頃、八ヶ岳の西麓にある母方の祖父母の家で暮らした。茅野駅から三里ほど山へ入ったこの部落には、百軒ばかりの農家が農事や冠婚葬祭などで助け合いながら暮らしていた。優しく涙もろい祖母は、八月十五日のお盆が過ぎると決まって、「お盆過ぎりゃあ、へえ秋だでな。さむしいわ(淋しいよ)」、と明治初期に建てられた古屋の、板目の浮き上がった縁側にペタンと坐って私に言った。この高地では八月上旬の力強く盛り上がる入道雲が、下旬にはすじ雲やうろこ雲に代わる。そして間もなく野を満たしていた緑が消え、虫達は最期の音楽を物哀しく奏でる。やがて一面の枯野の向うから、零下二十度の冬がひたひたと近づくのを、運命に抱きすくめられたようにじっと佇むばかりの晩秋を迎える。祖母はこの時期を残り少ない命と重ね合わせていたのだろう。
八月末、祖母の淋しがった故郷の秋が懐かしくなり、女房とこの部落を訪れた。小さな公会堂の前に車を置いた。かつてはここで、お盆には野良着をあでやかな浴衣に着替えた青年会や婦人会の人々が、日頃の辛い農作業を忘れ、木曽節、諏訪音頭、東京音頭などに合わせ、夜更けまで踊ったものだった。ここ三十年余りは若者がいなくなったのか盆踊りは挙行されていない。
久しぶりに村中を歩いた。どの家の前に立っても半世紀前の住人の姿が目に浮かぶ。大半の家が空屋のようだった。私より上の世代は亡くなり、私の世代以下は村を出てしまっていた。知人はおろか、人にも会わなかった。仕方なく村外れの木立にある母方先祖のお墓へ向かった。
まず祖父母と叔父夫婦に手を合わせた。ひどいイタズラをした私が、厳しい祖父に小脇に抱えられ暗い倉に入れられたこと。二時間もしてから祖母が鍵を開け、「わしがじいさんに土下座して許してもらったで、けえったら『もう二度としません』と手をついて謝るだぞ」と諭してから出してくれたことなどを思い出した。ついで左隣の初郎さんの墓前に立った。母のまたいとこで隣家の人でもある。二人息子は私が毎日のように遊んだ幼馴染で、一歳下の英ちゃんは後に哲学者、弟のヨッちゃんは古生物学者となった。初郎さんは蚕を飼っていたから、夏から初秋にかけての忙しさは尋常ではなかった。田畑での作業の合い間に日に何度も桑畑に行き、行く度に深さ一メートルもある背負いビク(竹籠)一杯の桑の葉を集めた。重さは優に三十キロもあるのでビクを土手の斜面に置いてよっこらしょと背負うのだ。ここ高地は朝夕冷えこむので、室温を二十三度から二十五度に保たないと蚕は死んでしまう。いくつもの火鉢の火と温度計から夜通し目を離せない。初郎さんが一度養蚕室に入れてくれたことがある。十五畳ほどの蚕室が二つあり、そこには竹で編んだ蚕棚が天井近くまで何段もあった。蚕が猛烈な勢いで食べるらしく、ザワザワという音が床から天井までを満たしていた。初郎さんが一段ずつ引っ張り出し、白い蚕が見えなくなるまで桑の葉を棚に乗せる。初郎さんは「彦ちゃ、こんなんくれてもなあ、ほんの数時間で食っちもうだぞ」と言うと、長さ四センチほどの白い蚕を私の掌にのせた。冷たくやや湿った手触りに思わず「ひゃー冷てえ」と声を上げたら、「こりゃ元気がねえで鯉のエサだ」と言って障子を開け庭の池に放り投げた。十数匹の鯉が水音を立てて殺到し、あっという間に吞みこんだ。
私は大学院生の頃、毎夏、祖父母の家に泊まり、朝六時から夕方六時まで一キロほど離れた林にあった十坪ほどの小屋で勉強していた。小屋からの帰り道、よく土手の下の田んぼから初郎さんが声をかけた。「やい、彦ちゃ、よく勉強するなえ、偉えもんだ。百姓なんちゅうもんはな、朝から晩まで汗と土にまみれ働きに働き、時が来りゃあ朽ちて死んでいくだけのもんだ」。母に尋ねると、初郎さんは子供の頃、神童の誉れ高かったが、農家の長男ということで中学進学を許されず、辛い想いを味わったそうだ。ある日、ひょっこり私の小屋に野良着の彼が顔を出し「山の炭窯で昼夜ぶっ通しで炭を焼いて来た。つまらねえ歌を手すさびに詠んでいるだが見てくれるか」と、明哲な顔をほころばせて言った。ビクから黒い手帳を取り出しページを開いた。
「峡(きょう)の空しばし余光を保ちつつ又冴えかえる寒土となりぬ」「聖書一冊アララギ二冊机の上にあり霙(みぞれ)に暮れる部屋に灯ともす」
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2024年11月号