神童の縦横無尽

第67回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース 社会 テクノロジー サイエンス

 ノーベル賞が発表された。最も権威があると言われるのは、主観が入りにくい自然科学三賞である。その物理学賞と化学賞が、ともにAI研究だったことに驚かされた。この二つの賞は、主に自然現象や物質の謎を解き明かす基礎研究に与えられてきたからだ。物理学賞の方はAIの礎となる「機械学習」を確立した功績によるもので、流暢な文章や精巧な画像などを作り出す生成AIは、この応用である。化学賞の方は、AIを用いて蛋白質の構造を素早く予測するモデルを作った業績によるものだ。ウィルスの解析、アルツハイマー病など病気の原因究明、新薬の開発などを迅速に実行する上で大いに役立つという。

 ここ二十年余り、我が国では役に立つ研究ばかりが奨励されるようになった。私はこの傾向を苦々しく思っていた。何の役にも立ちそうにない基礎研究こそが本来の真理の究明であり、人類に栄光を加えるものと学生の頃から信じてきたからだ。ニュートリノ発見でノーベル物理学賞をとった小柴昌俊氏が、新聞記者に「先生の発見は何の役に立つのですか」と問われ、「何の役にも立ちません」と言われたのを聞いていたく感激したほどだ。今回の発表を見て、「ノーベル賞よ、お前も実用か」の感にとらわれた。AIに詳しい友人に尋ねるとこう言った。「君の感覚はちょっと古いよ。それに物理学賞のホップフィールド教授の研究はAIの基礎研究といえる。ただ『機械学習』は脳の働きを真似た人工神経回路を用いたもので、根底にある理論は甘利俊一東大名誉教授が創ったんだ。福島邦彦電通大特別栄誉教授の功績も大きい」。自然科学三賞においても、どの分野を選ぶか、誰を選ぶか、について主観がかなり関与しているようだ。

 私が仰天したのは化学賞である。三人の中にデミス・ハサビス氏がいたからだ。三十年ほど前のある日、ケンブリッジ大学での同僚チャールズからメールが届いた。全英でベスト三十に入る囲碁プレーヤーで、日本文化に造詣の深い彼とは家族ぐるみのつき合いをしている。「正彦が教えていたここのクイーンズ・カレッジに、デミス・ハサビスという十九歳の青年がいる。十三歳でチェスのマスターとなった神童で、十七歳の時には『テーマパーク』というゲームソフトを開発し億万長者となった。ここでは私の数学と囲碁における弟子だが、近々東京に行くから会ってやってくれないか」

 Tシャツにジーンズという軽快な出で立ちで私の研究室に現れた彼は小柄で、太い眉の下の目がいたずらっ子のような光を放っていた。普通の英国人学生と異なる風貌なので素姓を尋ねた。米英などでは、差別主義者と疑われる危険があるためめったに素姓を聞いたりはしない。信州の縄文人である私は、皆が素直に答えてくれるのをいいことに遠慮せずに聞いてしまう。父親はギリシア系キプロス人、母親が中国系シンガポール人と言った。四方山話の後で彼に尋ねた。「君はゲーム開発ですでに非凡な才能を発揮した。どうしてケンブリッジで数学やITを学ぶのだい」「もっと学問を深め大きな仕事をしたいと思いました」「大きな仕事とは」「実は世界最強プロを負かす囲碁ソフトを作るのが夢です」。当時、チェスソフトはすでに名人と対等な力を持つものができていたが、段違いに複雑な将棋と囲碁のソフトは田舎初段の私に軽くひねられる程度だった。いくらチェスの神童でも無謀な夢と思ったが、学生を励ますのが教師の仕事だ。「将棋なら二、三十年でできそうだが、囲碁の方は着手可能な手の数が将棋より百四十桁も多い。これまでの改良でなく本質的に新しい着想が必要だ。将棋の米長名人と対談したことがあるが、『百手のうち九十五手は盤面を見てから五秒以内に思いついた手だ』と言っていたよ。どの手が有効か論理的に検討するのではないということだ。脳の仕組み、とりわけ類推は重要だから研究してみたら」。いい加減な私の言葉を彼は目を輝かせて聞いていた。

 彼はケンブリッジのコンピューター科学専攻を最優等で卒業し、数年間IT企業で働いてから脳科学を学ぶためロンドン大学大学院に入った。その分野で画期的な論文を書いた彼は、自ら会社を立ち上げ、二〇一六年には深層学習(AIに人間の脳のように自己学習や類推をさせること)の手法で「アルファ碁」というソフトを作り、ついに世界最強棋士を破ったのである。この世界的事件を受け、師としてインタビューを受けたチャールズから「デミスが囲碁ソフトの夢を語ったのは正彦が最初だったらしい」とのメールが来た。ついで二〇二〇年に彼は、同様の手法で今回のノーベル賞となった「アルファフォールド」という蛋白質の構造予測モデルを作ったのである。縦横無尽の大活躍だ。

 これまでのノーベル賞は数十年も前の業績に与えられることも珍しくなかったが、今回の化学賞は四年前の業績だ。すでに様々の分野で応用され、何年もかかる実験でしか分からなかったことが、たった数分で分かったりするからである。ただAIの異常な能力は人類を絶滅させるウィルスや兵器の製造に悪用される可能性もある。すでにサイバー攻撃、フェイクニュース、著作権侵害などで社会を混乱させている。超絶的なのは論理能力や記憶力だけで、人間が様々な体験を通して身につける情緒や倫理観を持ち合わせないからだ。AIに関する論文数が今、中国がアメリカの三倍、日本の十一倍で世界一というのも気になる。強力な国際的規制が早急に必要だ。今度デミスに会うことがあったら、「AIに情緒と倫理観を持たせるソフトを作ってくれ」と言いたい。

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source : 文藝春秋 2024年12月号

genre : ニュース 社会 テクノロジー サイエンス