内に静かに語りかけるもの

第65回

藤原 正彦 作家・数学者
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 日清戦争と日露戦争において我が国は、自分よりはるかに巨大な国土と軍隊を有する国家を相手に乾坤一擲の戦いを挑んだ。アジア、アフリカ、中東、中南米と、地球上ほぼすべての地域が白人の支配下となる中、何が何でも独立を保ちたいという、幕末以来の身分不相応な願いのためだった。勝利した我が国は植民地化を免れたばかりか、二百数十年の鎖国の後に開国した極東の島国がたった四十年ほどで列強の仲間入りする、という奇跡をなしとげたのだった。

 明治維新以来この頃までの青年には皆、「お国のため」が念頭にあった。学生達は、「男子志を立て郷関を出ず。学もしならずんば死すとも帰らず」の言葉を胸に、故郷を出た。すべての階層の青年が、自分達が誕生を目撃し力を合わせ作り上げてきた新生日本のため、少しでも貢献しようと無我夢中で頑張った。だからこそ日清戦争後、独仏露の三国干渉に屈した時は、すべての国民が悔し泣きし、日英同盟成立時には嬉しさから、家という家の門に日の丸が飾られたのである。全国津々浦々の男女が国家と一体になっていた。こんなことは日本の歴史始まって以来だった。

 ところが、両戦役を経て悲願を達成した国民は、大目標を失い喪失感にとらわれた。とりわけ青年層はそれまでの天下国家や立身出世から次第に遠のき、方向感覚を失ったまま彷徨し始めた。放蕩に走る者、文学に向かう者、内省にこもる者などが多く出た。一高生の藤村操は日光華厳の滝で、傍らの木に、「万有の真相は唯だ一言にして悉(つく)す、曰く『不可解』」との遺書を残し、滝に飛びこんだ。それに共感し同所で自殺を図った者が、その後四年間で百八十五名に上るほどだった。

 虚脱状態になったのは青年ばかりではなく、一般国民も同じだった。この虚無感を埋め、弛緩した精神を引き締めると同時に、国民に道徳、活力、夢、そして慰安や愉しみを与えようと、明治四十四年に立川文庫が発刊された。小学校高学年から中学校初年級向きの叢書で、大正中期までに二百冊以上が刊行された。猿飛佐助、水戸黄門、真田幸村、宮本武蔵など架空や実在の人物が、血湧き肉躍る筆致で描かれていた。私の父新田次郎をはじめ、川端康成、大岡昇平、吉川英治、松本清張などの作家ばかりか、湯川秀樹、朝永振一郎なども少年時代にこれの大ファンだった。私も中学生の頃、父の生家の本棚に、大正時代のサンガー夫人『産児調節論』などと並んでいた立川文庫をむさぼり読んだ。なおサンガー夫人の本について父に尋ねると、「オヤジが読み感激したらしく、村人達に産児調節の大切さを説いて回ったが効果はなかったらしい。子供が九人いたからなあ」と言った。

 庶民もまたこの頃ブームとなっていた貸本屋で、講釈師による講談の速記本や、無名だが実力のある文士たちによる講談本を借りて読んでいた。明治末には講談社が、立川文庫と同じ趣旨で大人向けに月刊「講談倶楽部」や講談本を刊行し始めた。講談の根っ子には勇気、正義、卑怯を憎む心、名誉と恥、忠孝、そして惻隠など武士道精神の中核が息づいていた。涙と笑いがあり人々を魅きつけた。道徳教育であり人間教育であった。武士道精神は古代からあった日本人のよき道徳を、後に儒教や神道で整理したものだから、日本的教養とも言える。

 一方、エリート層の教養は異なる方向に向かった。エリート生産装置としての旧制高校の教育が大きく変わった。明治三十九年、『武士道』を英語で著し国際的名声を博した新渡戸稲造が一高の校長に就任した。彼は、在任七年間で、それまで一高で支配的だった武士道や漢籍などを中心とした儒教的な修養から、東西の名著や文化に多く触れるという西洋的教養に舵を切った。南部藩士として幕末に生まれた新渡戸にとって、武士道は当り前すぎて教えるまでもないと考えたのだろう。学生達は明治二十年以降に生まれ、武士道とは疎遠となった若者たちだった。一高の教育はまもなく他の旧制高校に伝播した。これに呼応するように岩波書店が、教養層向けに、漱石『こころ』、阿部次郎『三太郎の日記』、倉田百三『愛と認識との出発』など、哲学、思想、西洋の名著を次々と出版し始めた。こうして庶民は日本的教養、エリートは西洋的教養と乖離して行った。エリート層は日本的教養を古臭く発展性のないものとみなし、それに捉われている大衆を見下していた。

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source : 文藝春秋 2024年10月号

genre : ライフ 読書 ライフスタイル 歴史