ハーイヤ、ハーイヤ

古風堂々 第60回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ 国際

 三十年余り前に住んでいた英国ケンブリッジは、北緯五十二度と樺太北部と同じ緯度のため、十月から三月くらいまでの約半年が冬だった。この期間は日が短いうえ、冷たい雨がそぼ降り、寒風が吹きつける、といった陰鬱な日々が続く。太陽に飢えていた私達は、スペインのセビリア大学から四月初めに講演を依頼された機会を利用し、スペイン旅行を計画した。まずは何はともあれ太陽、と地中海に面したコスタデルソル(太陽海岸)へ飛んだ。ホテルに着くや、水着に着替えビーチへ直行した。ビーチには大勢の陽焼けしたトップレスの娘達が、波打際でたわむれていた。六歳と五歳の息子の手を引いて何度も波打際まで往復していたら、女房が「今日はいやに子供の世話に熱心ね」と言った。私は陽光を浴びながら、暗く惨めな天候の下で数学に呻吟していたケンブリッジでの日々との落差に、頭がくらくらしていた。

 ここで四日間ほど、ガクモンを忘れホルモンを補充してからセビリアへ行った。その日の午後に大学で講演した。セビリアはフラメンコ発祥の地であり闘牛でも有名だ。相談の末、この日は女房がフラメンコ劇場へ、翌日は私が闘牛見物に行くこととなった。

 翌日、「さあ、いよいよヘミングウェイの小説やピカソの絵に出てくる闘牛だ」、と勇んで出かけようとした私の背で、女房が「血を見て卒倒しないでね、あなた、口ほどにもない人だから」と言った。一万二千人を収容するマエストランサ闘牛場は、正面は真白の壁で、窓枠などは金色、ドアは赤とスペインらしい色使いである。中に入ると、黄色の土を敷きつめた直径六十メートルほどの円型の競技場の周りに、観覧席が設けられていた。五〇〇キロほどの黒い牡牛を、スマートで男前な闘牛士(マタドール)が大きなピンクや赤の布で興奮させ、突進させ、隙を見ては背に何本も銛を突きさす。牡牛が突進や出血で疲れ切った頃を見計って長剣で肩甲骨の間から心臓にとどめを刺す。牡牛は崩れ落ちる。闘牛士は花束を受け大歓声を浴び場内を一周する。「牡牛なぶり殺しショー」であった。一頭が殺され馬に引きずられて競技場を出て行くのを見届けると、もう沢山とばかりに、私は残りの五つの試合を見ずに競技場を後にした。

 スペインの古くからの伝統で、国技とも言える闘牛は、動物愛護運動の高まりにより二〇一二年のカタルーニャ州などいくつかの州で禁止となったが、二〇一六年にスペインの憲法裁判所が、「闘牛はスペインの文化遺産であり維持されるべき」とし、自治州による闘牛禁止条令を違憲と判断した。この判決の背景には、ここ三十年ほど世界を席捲しているポリコレによる「キレイゴト押しつけ」に対する伝統派の反発があったのだろう。EUの、難民救済という美名の下での大量移民受け入れに、伝統を大事にする英国は反発しEUを離脱したが、スペインの違憲判断も根は同じような気がする。

 この三月、花粉から逃げようと、私は例年通り沖縄に一週間ほど滞在した。ひいきの居酒屋の、私と相思相愛だった(はずの)ルナちゃんが昨年末で店をやめてしまったのは残念だった。意気消沈していたらホテルの女性が、「今度の日曜日にうるま市で闘牛がありますよ」と教えてくれた。「牛を殺さないものですか」と尋ねると「沖縄では殺しません。人と牛が戦うのではなく、牡牛と牡牛が角を突き合わせて押し合う競技です」と言った。逃げた方が負けらしい。

 小じんまりとした円型の闘牛場に入ると、競技場はスペインと同じく黄色い土を敷いた円型だが、直径が二十メートル程と小さいので、国技館の土俵をほうふつとさせた。最前列の近くでは牛の汗やよだれが飛んできそうと思ったので四列目に陣取った。コンビニのおにぎりを頬張っているうちに軽量級の競技が始まった。久米島生まれと徳之島生まれの戦いである。満員近い客のほとんどは沖縄の人らしく、大声でひいきの牛を応援している。それぞれの牛に勢子(せこ)が一人ずつついて、ドンドンと片足で足踏みしながら「ハーイヤ、ハーイヤ」と大声でけしかける。角と角のぶつかる音が響きわたる。三分も押し合うと牛も呼吸が苦しいのだろう、腹が大きく波打つ。私は角の先が相手の目に突き刺さらないか心配でならなかったが、なぜかそうならない。三分三十九秒で久米島生まれがくるりと背を向けトコトコと逃げ出し勝負は終った。いよいよ一〇〇〇キロ以上の重量級となった。スペインの牛の二倍の重量だ。この重量の激突だから迫力満点である。死力をつくして頭で押し合うから額から出血したりする。かと思うと一一五〇キロの強豪相手となった「三四三」という牛は、意気地なしというか賢いというか、相手と頭を合わせただけで力の差を悟ったのか、逃げ出してしまった。一〇〇〇キロの巨牛があわてて逃げ出す様は滑稽だった。

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source : 文藝春秋 2024年5月号

genre : ライフ 国際