言えなかったこと

古風堂々 第59回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ ライフスタイル

「嘘つきは泥棒の始まり」とか「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」は、誰もが幼い時に耳にしただろう。ただ私の場合、小学校に入る頃からは親に言われたことがない。一方、「卑怯なことはするな」は武士道精神から来る日本人の「形」として、繰り返し叩きこまれた。そのせいか私は、嘘には呆れるだけだが、卑怯には強烈な不快感を感ずる。偉そうなことを言う私も卑怯な振舞いをしたことがあり、思い出すたびに痛みを感ずる。

 高一の時、中学時代の級友MとSを誘い、三人で伊豆の西海岸へ一泊の海水浴に出かけた。カナヅチの三人は浜辺で身体を日に焼いたりしていた。二十メートルほど離れた所にやはり三人組のかわいい女子高生がいた。というか私達が彼女達から二十メートルの地点に陣取った。三人組は波打ち際で波に濡れたまま仰向きに寝そべったりして私達を挑発した。というか私達が勝手に挑発された。

 話しかける勇気のない私達は、諦めて岬の灯台に行った。岬の突端に立つ高さ十メートルほどの白い灯台には、鉄製梯子が地上二メートルほどの高さからかかっていた。背の高い私とMはその下端に跳びついて、てっぺんまでよじ登った。運動神経ゼロのSは何度か跳びついたものの登れず、下で待つことになった。Mと私は灯台上部の円状の欄干から景色を眺めていたが、風が強く、やせているMは寒さですぐに降りてしまった。欄干から二人を見下ろすと、自分が思ったより高い所にいることに気づき狼狽した。強風に灯台が揺れているような気さえした。同時に、高所で覚える下腹部の異様な緊張を感じ、ついで強烈な尿意を覚えた。私は二人のいる梯子側とは反対の海側に回り、欄干にしがみつきながら前方に思い切り放尿した。強風が巻いているのか尿が顔まで吹き上げて閉口した。十秒もしないうちに下から「オーイ大変だ、にわか雨だぞ、早く降りて来い」と二人の声がした。急いで降りると二人が、「雨、止んだみたいだぞ。天気雨でよかった」と言った。「雨は僕の小便だったんだよ」とはとうてい言えなかった。白状しないまま、すなわち欺したまま歳月が過ぎた。先月、Sが亡くなった。私は一人で彼の家の前まで行き、手を合わせ謝罪した。

 小学六年生の時の思い出はもっと辛い。隣席に坐るピンクの半袖セーターのS子が、ある日の昼休みに「シャーロック・ホームズの思い出」を文庫本で読んでいた。文庫本は大人の読む高尚な本と手にしたことのなかった私は、クラスで唯一人、文庫本に親しむS子を日頃から仰ぎ見ていた。ところがこの日は違っていた。子供向きに書き直された「名探偵ホームズ」を読んだばかりだったからかも知れない。嫉妬と敗北を感じた私は、彼女の読んでいる文庫本にスーッと顔を寄せると、「見せびらかしたいんだろう、文庫本読んでるの」と言ってしまったのである。S子はつぶらな瞳で私を見上げると、開かれた本から視線を外したままじっと俯いていた。しばらくして、S子のぽっちゃりした頬に涙がつたった。

 午後の授業が始まってもS子は泣いていた。先生がやって来て「どうしたんだ」と尋ねた。彼女はさらに激しく咽び泣いた。先生の質問には答えなかった。先生は周囲の子に「誰か知っているかい」と聞いた。皆が首を振った。私は黙っていた。恥ずかしすぎて真実を言えなかったのである。授業中ずっとS子は泣いていた。先生が何度同じことを尋ねても決して「藤原君が」とは言わなかった。ひどい言葉で傷つけ、謝らなかったうえ、知らぬ存ぜぬを通し続けた卑怯は、思い出すたびに情けない。先生の質問に頑と黙秘を通し私をかばってくれたS子を思うと、今もいたたまれなくなる。心から謝りたいが私が別の中学に行ってしまったこともあり、S子がどこにいるのか分からない。

 新婚旅行でも恥ずかしいことをした。パリのホテルでのこと、夜遅くなって喉の渇きを覚えた私は、水道の水は飲めないので階下に水を買いに降りた。帰りのエレベータで黒いブーツに黒コートの若い女性と二人だけになった。この女性が不自然なほどしばしば私へ視線を投げかける。そしてついに視線が衝突すると、私が慌てて目をそらす間も与えず微笑みかけてきた。戸惑いながらも微笑み返した。妙齢の美しい女性に見つめられ、微笑まれ、悪い気のするはずはない。むしろ嬉しかった。やはり自分は魅力的なのだ。日本ではとんとモテなかったが、それは自分の顔がフランス人好みだったからだ。と考えていたら「ワタシト アソビマセンカ」と日本語で言った。娼婦だった。「疲れているので」と英語で言ったら「あら元気そうよ」と流暢なアメリカ英語で言った。物価高のパリで苦学するアメリカ人留学生が客商売をしているのかも、と思うと同情心が湧き少し歓談した。私の恐ろしい魅力に気づいた彼女は本腰を入れて私に迫ってきた。怖くなって「恋人がいるので」と言ったが、「私にも恋人はいるわ」と譲らない。新婚旅行中と言えばそれまでなのに、なぜかそう言えなかった。女房の待つ二十六階に着くと彼女も降りた。私は「では」と言うやいなや一目散に部屋まで走った。追ってくるのが感じられた。ドアを激しく連打したらすぐに開けてくれた。女房が「息せき切ってどうしたの」と言った。「いや、変な女に言い寄られてね。『愛する妻と新婚旅行中さ』と言ったらすぐ諦めたよ」と言った。女房は「うれしいわ、そう言ってくれたの」と私の首にとびついた。女と女房の両方に嘘をついたことになった。卑怯ではないので、この出来事は私の心を少しも苛んでいない。

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source : 文藝春秋 2024年4月号

genre : ライフ ライフスタイル