二月の憂鬱

古風堂々 第58回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ 教育

 一月中旬の夕方、塾帰りの小学生が二十名ほど、小旗を掲げた先生の後を二列になって最寄りの駅に向かって歩いていた。不思議だったのは皆押し黙っていてよそ見する子さえ一人もいなかったことだ。家に戻り女房にこの話をすると、すぐに顔を曇らせて言った。「この時期は一年で一番いやな時期なのよね。二月初めに私立中学入試、中旬に高校入試、下旬に大学入試と続くから。子供が試験から帰って来た時、玄関を開けて顔を見るのが本当に恐かった」。

 入試の合否が人生の明暗を決めるものでないことは重々承知しながらも、周りの者は大いにふり回される。私もその一人だった。我が家で初めての受験、すなわち長男が国立大附属小学校を受けた時は、女房が風邪で寝込んだため保護者面接に私が出向かされた。家を出る時、「調子に乗って余計なことを言わないでよ」と念を押された。二組の母子が一緒の面接だった。試験官は、まず長男に「今日はどうやってここまで来ましたか」と尋ねた。長男は「タクシー」と即答した。「しまった」と焦った。受験要綱に「公共の乗物で来るように」とあり、女房に「必ずバスで行くのよ」と言われバス停で待っていたのだが、五分待っても来ないのでしびれを切らしタクシーを拾ったのだ。口止めすることも考えたが、武士の嫡子に嘘をつけとは言えなかった。試験官は何かを書いてから、紺のスーツを着こんだ隣りの母親に向かい、「幼稚園でお子さんが喧嘩に巻き込まれた時、御家庭ではどう指導されていますか」と尋ねた。母親は「暴力は絶対に許されませんが、主張すべきはきちんと主張するよう指導しております」と立て板に水で答えた。「お父様は」と私に尋ねたので、「喧嘩だけは死んでも勝つよう指導しております」と正直に答えた。

 帰宅して女房に報告したら「何とバカな! 心配していた通りだわ。あれ程バスで行くように言ったのに。それに死んでも勝つようにとは何よ。試験官、きっと暴力的傾向あり、危険人物と書き留めたはずよ。あなたの非常識は仕方ないけど私の子供まで台無しにしないで」となじられた。私の子供でもあると思ったが口答えはやめた。不合格だった。以後、面接に最も不適な人間として私が出向くことはなかった。

 入試シーズンの憂鬱は三人のドラ息子達にまつわることばかりではない。大学教官の仕事として問題作成、試験監督、入試面接、答案採点がある。世の中に答案採点ほど退屈な仕事はない。独創的な答案などまずあり得ないからである。いくら退屈でも一点が受験生の生涯を左右するかも、と思うと手を抜くこともできない。それに受験生によっては全然証明ができていないのに、最後に「よって証明された」と堂々と書いてきたりするから、細心の注意も必要だ。朝から晩まで採点をしていると二日間で疲労困憊となる。

 数学における良問作成は中高大のどの教師にとっても難しい。だから入試問題の大半がくだらない問題となる。私は、常にそれまでの大学入試に出たことのない、斬新な問題を作ろうと心がけた。これが思わぬ波紋を巻き起こした。しばしば私の出題した問題に零点が大量発生したのである。受験生はひらめきを要する新しいタイプの問題には面食らい歯が立たないのだ。皆が零点だと採点は楽でありがたかったが、力のある子もない子も零点では選抜道具として役に立たない、という理由で次第に私の作った問題は採用されなくなった。

 試験監督も苦手だった。ある年のセンター試験で、午後の部が始まる直前、監督をしていた私はそこにいたほとんどの受験生が打ちひしがれた表情でいるのに気づいた。気の毒で見ていられず、「皆さん、午前の数学の出来は気にしなくていいですよ。例年よりずっと難しい問題でしたから、平均点は例年より大幅に下がるはずです。午後は新しい気持ちで頑張って下さいね」と励ました。これについては後に厳しい注意を受けた。その場にいなかった受験生に不公平になるから以後、決められた言葉以外は慎めということだった。

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source : 文藝春秋 2024年3月号

genre : ライフ 教育