──誰より早く武士を捨てた男
「ちょっと、こちらへおいで」
母親のお順が、薄汚い身なりの女を庭に呼び入れた。住む家もなく、食べ物を求めて町をうろつき回るその女のボサボサ頭にはたくさんのシラミが巣くっており、それを取ってやるためだった。女は異臭を放っていた。髪から落としたシラミを石で叩きつぶすのは、諭吉の役目だった。百近くも取り終わるとお順と諭吉は注意深く着物をパタパタと払い、ぬかで丁寧に手を洗うのだった。そのあとで女に米を分けてやるというのが決まりで、幼い諭吉にとって気の滅入る仕事だった。
福沢諭吉は一八三五年一月十日、大阪の堂島川沿いにある、豊前中津藩(大分県中津市)の蔵屋敷で呱々(ここ)の声をあげた。蔵屋敷とは、年貢米や大豆、カツオ節、紙など藩の特産物を販売するための倉庫兼屋敷で、中之島や堂島界隈には川に沿って西国や日本海側諸藩の蔵屋敷の白壁が百以上も連なり、緑の松並木と相まって美しい景観をつくっていた。瀬戸内海から堂島川に入り、専用の水門から蔵屋敷まで入り、米俵などを運び込むのである。天下の台所と言われ物産の集積地だった大阪で、各藩はその産物を、掛屋と呼ばれる商人に売り換金したり、豪商から借金する際の抵当としたりして、藩の財政資金としていた。江戸も後期になると、どの藩の財政も逼迫し、大商人の力が強くなっていたのである。
父親の百助は中津藩士であったが、禄高は年に名目上は十三石ほど、玄米では五石五斗(大人一人が年に一石ほど食べる)くらいという下級武士(下士)だった。百助は十年余りもここ蔵屋敷で蔵役人をさせられていた。蔵屋敷の中にあった長屋の一つに、父百助、母お順、上から長男の三之助、お礼、お婉、お鐘の三人の娘たち、そして末っ子の諭吉と、総勢七人の家族が暮らしていた。長男を三之助と名付けるのだから百助もかなり独創的な人物である。幼い頃から秀才の誉れ高かった百助は、漢学者帆足万里に学んだ人物で儒学者と呼べるほどだったが、ここでは廻米方(かいまいがた)といって会計係をしていた。百助はソロバン片手に銭勘定という毎日が嫌でたまらなかった。長男三之助が蔵屋敷内の手習い塾で九九を習ったと言うのを聞いて、
「何、そんなことを習っているのか! 三之助、九九など武士の子のすることではない!」
と塾を止めさせたほどであった。商人に頭を下げて借金するのも気が滅入る仕事だった。そこで暇がありさえすれば漢籍ばかり読んでいた。千五百冊もの蔵書を有していたから並みの儒学者以上である。長年探していた「上諭条例」という清朝の法令集全六十四巻が手に入ったその夜に諭吉が生まれたので、うれしくて諭吉としたのであった。
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