柴 五郎 私の代表的日本人

第3回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ 歴史

──八ヵ国軍を率いた“小さな男”

 柴五郎は会津藩士柴佐多蔵の五男として一八六〇年に生まれた。佐多蔵は常に上下(かみしも)着用を許された二百八十石の上士で十一人の子沢山だった。五郎は名の通り五男だが、四男五女の次に生まれたので最年少の男子として皆に可愛がられた。

 幕末の頃、京都には諸国から尊王攘夷の過激志士が集い、天誅(要人暗殺)や強盗が横行し、治安を受け持つ京都所司代や京都町奉行はお手上げとなっていた。そこで幕府は一八六二年、所司代や町奉行の上に立ち、京都の治安、御所、二条城の警備などを担う役割として京都守護職を設置した。この任を引き受けるのを会津藩を含め徳川親藩はこぞって固辞した。どの藩も財政的に苦しく、千人もの藩士を派遣する余裕などなかったからである。会津藩の家臣たちも「焚き木を背負って火の中に飛び込むようなもの」と大反対した。しかし藩主、松平容保は藩祖、保科正之(三代将軍家光の異母弟)の作った会津家訓(かきん)の第一条、「大君(徳川家)の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」を説得役の松平春嶽に持ち出され、ついに承諾した。家臣たちは「これで会津藩は滅びる」と慟哭した。

 慶応四年(一八六八年)、長兄に手をひかれ、藩校の日新館に入学したばかりの五郎の周辺が騒がしくなった。前年の十月十四日、十五代将軍徳川慶喜が欧米の議会制度を模範とした合議制の政体を想定して大政奉還をしたが、まさにその日、幕府が単なる一大名になるのを待っていたかのように朝廷から「討幕の密勅」が下ったのであった。日本近代史の故石井孝東北大教授など多くの学者が「偽勅」とみなすものである。まだ十四歳で天皇になったばかりの明治天皇のまったくあずかり知らぬもの、西郷隆盛、大久保利通、および孝明天皇を毒殺したとの論が絶えない岩倉具視ら三人の謀議による偽文書と推測されている。薩長には新政府における権力を握りたいという強い動機があり、そのためには隠然たる勢力をもつ幕府を武力討伐すべきと考えたのである。いずれにせよ、討幕の勅旨が出たということは、幕府そしてそれを支えてきた会津が朝敵、逆賊となったということである。京都守護職として京都の治安を守り、天皇を命がけで守ってきた会津藩としては寝耳に水のことだった。すでに大政を奉還した後なのに、幕府と会津を討伐せよ、というのだから尚さらである。薩長を中心とした西軍は「錦の御旗」を掲げ、慶応四年一月には鳥羽伏見の戦いで幕府軍を打ち破り、各地で掠奪暴行を繰り返しながら江戸に進軍した。錦旗を相手に日本人は戦えないのだ。江戸城も四月には無血開城となり、将軍慶喜は水戸に謹慎となった。薩長などの軍はここで止まらなかった。江戸城開城で矛を収めよう、という意見もあったが、長州の木戸孝允(桂小五郎)が会津征討を強く主張して譲らなかった。一八六四年の禁門の変(蛤御門の変)で、御所に大砲を撃つという前代未聞の不敬を働いた長州を、京都守護職の会津藩は徹底的に撃破したうえ、その後の長州征伐でも中心となったからである。また、薩摩藩は庄内藩も討伐したかった。江戸の治安を乱すことで幕府の威信を傷つけようと、薩摩は江戸で浪人やヤクザなどを用い集団で放火、略奪などの狼藉を働いていた。彼等が決まって三田の薩摩藩邸に逃げこむのを見た江戸市中取締役の庄内藩は犯人を出せと言ったが一切言うことを聞かなかったので薩摩藩邸を焼き払ったのであった。長州は会津藩に、薩摩は庄内藩に強い怨念を抱いていたのである。私怨であり逆恨みであった。薩摩藩邸焼き打ちの報を京都で耳にした主謀者西郷隆盛は、「これで開戦の口実ができもうした」と、居合わせた谷干城に言ってニヤリと笑った(『隈山(わいざん)詒謀録(いぼうろく)』)。

 

 満八歳の柴五郎にとっても、薩長を中心とする西軍が五月に北上を始めたのは理解しがたいことだった。すでに藩主の容保公は、すべての幕府要職を辞任し、藩主の座を嗣子に譲り謹慎している。それに北上する新政府軍に何度も恭順と謝罪を表明している。会津と庄内に同情した奥羽諸藩は、まとまって新政府に対し会津と庄内の赦免嘆願までした。これらすべてを拒否しての討伐だったからである。

 会津藩は座して辱しめを受けるよりは、と総動員体制をしいた。可能な限り頑張り、和平の機会を探ろうという計画だった。武士だけでは不足ということで農民、町人などに募集をかけた。何と三千名近い志願者が即座に集まった。戦闘では彼等も勇敢に戦った。庄内藩でも同様だった。後年、「会津藩や庄内藩は封建制護持の元凶として討ったが会津や庄内の農民や町人は新政府軍を歓迎した」などと薩長政府は言ったが、よくある権力者による歴史捏造にすぎない。五郎が入学したばかりの日新館はまもなく休校となった。教室は負傷者のための病院となり、道場は弾薬製造所となった。新政府軍の北上に対応し、国境守備を固めるため、柴家では、父は城内に入り、長男と三男は越後口へ、次男は日光口へと向かった。白虎隊員だった四男は熱病により家で床についていたが、母が「柴家の男子なるぞ、父はすでに城中にあり、急ぎ父のもとに参じて、家の名を辱しむるなかれ」と大声で𠮟責し無理やり送り出した。四男は蒼白な顔のまま、家族一同に見送られふらふらと城へ向かった。母は目頭を袖で押さえながら家に入った。家に残ったのは、八歳の五郎以外には八十一歳の祖母、五十歳の母、長男嫁、姉、妹の女五人だった。

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source : 文藝春秋 2023年10月号

genre : ライフ 歴史