安倍晋三元首相の国葬で、菅義偉前首相は弔辞の中で、安倍氏が岡義武氏著の『山県有朋』を読んでいて、伊藤博文が暗殺された際に追悼して詠んだ和歌のところのページの端を折ってあったことに触れた。私はテレビを見ていて驚いた。安倍氏は世襲議員で初当選以来華やかな道を歩いたので、山県・伊藤の二人であえて言うなら、44歳で初代首相となった伊藤と自己同一化すると思ったからである。
山県は近代日本の「悪役」として語られることが多い。その理由として挙げられるのは、一つは山県の奇兵隊時代の部下で御用商人となった山城屋和助が、山県が兵部大輔(たいふ、次官)を務める兵部省の公金を借入れ、生糸相場で失敗して多額の損失を出した事件がある。山県の関与の程度は不明であるが、彼を排斥しようとする薩摩系将校を抑えて山県を救ったのは、汚職を毛嫌いした西郷隆盛であった。
もう一つは、日清戦争中に山県が第一軍司令官として、海城の攻撃を大本営から却下されたにもかかわらず攻撃を命じたことだ。これは、西南戦争・日清戦争では通信手段が不十分で、現地軍の司令官に裁量が認められていたことを考慮せず、昭和期の感覚で理解する立場からの批判である。
また、陸軍に山県閥を作り、陸相・参謀総長や軍司令官等の要職人事を、山県を中心に決めたことも挙げられる。陸軍の派閥支配の評価は難しいが、少なくとも山県が健在の間は、満州事変のような陸軍の暴走が起きず、暴走しかけても抑えていた。1922年に山県が死去し、一般将校に嫌われていた山県閥が崩壊した後に、陸軍の暴走が始まる。
山県「悪役」論は、戦前においては山県が政党の台頭や政党政治と対決し、軍部大臣現役武官制を導入、また護憲運動などで攻撃されたことに由来する。戦後は戦争への反省から、日米安保条約反対運動等が盛り上がる中で、徴兵制を導入した山県に対し、「悪役」イメージが戦前同様に復活した。それがこれまで述べた諸事件まで含めて「悪役」山県像として定着したと言える。
岡氏の『山県有朋』はこの時期に書かれているが、右の時流の山県イメージに流されず、デモクラシーをなかなか理解できない「烈しい権力意志に貫かれた」山県像を打ち出している。
岡氏が同書を出版されてから約50年後に、私も山県の伝記を刊行し、新しく公開された史料で山県像をより明確にできた。さらに、今の新しい安全保障環境の中で、かつて列強から侵略される恐怖の下で帝国主義の時代に生きた山県を、より客観的にとらえることができた。
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