河原操子 私の代表的日本人

第4回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ 国際 教育 歴史

──日蒙を繫いだ女子教育の先駆者

 明治三十二年(一八九九年)の夏、陸軍大佐福島安正はお盆の墓参りのため、久し振りに故郷松本を訪れた。松本城が黒い勇姿を現わすと福島は思わず歩を止め、「さすが、我が松本城だ。世界中のどの城にも負けない」と呟き深呼吸をした。深閑とした昼下がりの城の緑でアブラゼミがジリジリと鳴いていた。

 七年前、ベルリンの日本公使官付き武官として四年の任期を終えた福島安正は、ベルリンから帰国する際、船を用いず、シベリアを単騎横断したことで、一躍世界的ヒーローとなった。明治二十五年二月十一日紀元節、たった一人でベルリンを馬で出発し、何頭もの馬を乗りつぶす苦行の末、ウラル山脈を越え零下四十度の厳寒のシベリアを突破し、ウラジオストックに明治二十六年六月十二日に到着したのである。一年四ヵ月にわたる一万四千キロの冒険行であった。というより冒険行に見せかけた偵察行であった。いつか日本の脅威となるロシアの地理や人々を視察すること、そして建設が始まったばかりのシベリア鉄道の位置や工事の進捗を偵察するのが、主たる目的だったのである。この年の十月に枢密院議長山県有朋が提出した「軍備意見書」にはこう記してある。「露国が侵略を以て対外の政策と為し、彼若隙あらば我直ちに之に乗ぜんとするの状あるは、今日各国政事家の共に視認して畏怖する所なり」。また「十年以内に完成するはずのシベリア鉄道こそは必ずや東洋の危機を招く」ともある。これらはすべて福島の報告に基づくもので、その後の軍首脳部の基本認識となった。

 

 福島は嘉永五年(一八五二年)に松本藩の下級藩士の長男として生まれた。二歳の時に母を失なった後、祖母、父親と三人で、微禄によるつましい生活を送っていたが、明治二年、十六歳の時、藩の給費留学生に選ばれ上京し開成学校に通った。残った祖母は間もなく亡くなり、父は明治四年の廃藩置県により今度は本当の無給となり、爪に火をともすような晩年を送った。福島は墓前に線香をあげながら、枕元で優しく昔話を語ってくれた祖母を想い、東京に出てから海外を飛び回っているばかりで何の父親孝行も果たせなかった自分をふがいなく思った。

 墓参りをすませた福島は、竹馬の友である河原忠を訪ねた。訪ねたというほどの距離もない、向かいの家から北に三軒目の家である。河原家は代々松本藩の藩儒として格式の高い家だった。特に河原忠の父親、曾一右衛門は他藩にも学名が聞こえるほどの学者で、藩主戸田侯の信頼も厚く、家老の子弟たちも競ってその教えを乞うほどの人物だった。そのため河原家には資産もあり、明治四年の家禄奉還後も、福島家とは違い生活上の不安はなく、河原忠は家学に研鑽を積みながら、漢学塾を開き孔孟から漢詩までを教えていた。

 安正と忠は同じ一八五二年生まれであり、幼少時代からの心友であった。福島は帰郷するたびに河原忠を訪ね語り明かすのが楽しみだった。河原は十年ほど前に夫人を心臓病で亡くしていたが、後妻をとることもなく、一人娘の操子(みさおこ)と暮らしていた。

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source : 文藝春秋 2023年12月号

genre : ライフ 国際 教育 歴史