「社中協力」に魂を入れた西南戦争
福澤諭吉の慶應義塾は潰れかけたことがある。きっかけは西郷隆盛の反乱だ。1877(明治10)年2月に起きた。明治政府は存亡の危機に陥る。やっと鎮圧できたのは9月だ。いわゆる西南戦争である。莫大な戦費を要した。国家の年間の予算に匹敵した。むろんそんなお金はない。増税にも限度がある。というか、新しい国づくりのために重税をかけ続けた新政府の苛政が、士族反乱や農民一揆を相次がせて、その果てに西郷が立ち上がったとも言える。戦費を下々から新たに取り立てられる道理はない。政府は窮した。しかし幸いにも政府は通貨を発行できる。結局は足りない紙幣を新たに刷るかたちで急場を凌いだ。
するとどうなるか。急激なインフレが起きる。粗製濫造された円の信用は地に落ちる。物の値段は上がってゆく。物でなく現金を蓄えて暮らしを立てていた階級は、深刻な生活苦に陥る。とりわけ元の武士はそうである。
ゆえに慶應義塾も潰れかけた。その頃の塾生の中核を成す階層は士族だった。全国の旧藩の旧武士の優秀な子弟が、元の主家から学資を得るなどして、慶應義塾に送り込まれてくる。彼らなくして義塾はない。そのお金が詰まってしまった。塾生は急減する。福澤は追い詰められた。学校を畳もうか。もちろんその前に手を尽くした。福澤は旧幕臣である。かつての主家に融通を頼んだ。薩摩の島津家にも新政府にもお金をせがんでみた。けれど断られた。福澤はついに閉塾を決意し、慶應義塾の所在する三田山上の演説館に社中を集め、そう宣言した。しかるに社中は納得しない。政府の乱暴きわまる戦争財政の巻き添えで塾が滅びてよいものか。
社中。慶應を慶應たらしめるキイワードである。この夏、甲子園球場の応援席に万雷の波となって押し寄せ、応援歌『若き血』などを際限なく歌い続けては、世間の耳目を集めた、子供から老人までの大集団。あれこそ“慶應語”で言う社中に他ならない。
それはいつ誕生したか。義塾の起源は、1858(安政5)年に、福澤が築地鉄砲洲に蘭学塾を開いたことに遡る。その塾は、芝の新銭座に引っ越したり、また鉄砲洲に戻ったりした。1868(慶應4→明治元)年には慶應義塾と正式に名乗り、1871(明治4)年には、新銭座から三田2丁目に移る。そのとき真っ先に作られたのが「慶應義塾社中之約束」である。
そこにはこう記される。慶應義塾の「地面は福澤諭吉の名を以て官に借りしと雖(いえ)ども」、その目的は私塾を開くために限定せられていて、福澤の勝手が出来る場所でなく、「其建物は塾の有金幷(ならび)に塾の名を以て借りたる金を出して買受しものなれば、福澤氏の私有にあらず」。すると義塾の土地と建物は一体だれのものか。社中という言葉が持ち出される。義塾は「社中公同の有」なのだと言う。具体的には誰が社中なのだろう? 説明が積み重なる。義塾の学問とは、たとえば福澤が自らの人格や教養に基づいて福澤でなければなし得ぬ感化を致すような性質のものでは全くない。ただ「博く洋書を読み、或は其文を講じて人に伝へ、或は之を翻訳して世に示すのみ」なのだ。「文明開化」に必要な書物を読め、訳せ、内容を噛み砕いて説明できる者ならば、誰でも先生。もしも生徒の学びが捗(はかど)れば生徒が教師を兼ねても一向に差し支えないし、むしろ積極的にそうなるべきだ。「今日は人に学ぶも明日は又却て其人に教ることあり」。問題になるのは「人の才不才」のみである。誰が生徒で先生か。その区別は三田山上では本質的な事柄ではない。
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