シンゾーには負けた

安倍晋三秘録 第2回

岩田 明子 政治外交ジャーナリスト
ニュース 政治
「もう終わりだ!」激怒するトランプに安倍は……
岩田明子 (2)
 
岩田氏

対米追従に留まらない

「米国はしたたかな国だ」

 ここ数年の間、安倍晋三元総理は幾度となく、こう口にしていた。

 今年11月に米国は中間選挙を迎えるが、民主党の劣勢が伝えられている。安倍は、バイデン大統領とはオバマ政権で副大統領を務めていた時から親交があり、苦労人ゆえの温かみに敬意を抱いていた。一方で、バイデンの韓国をめぐる対応では疑問を抱く事例もあり、安倍の中では評価が定まらなかった。だが、今年2月、ロシアのウクライナ侵攻に対する米国の立ち回りを見ると、安倍は、冷徹で強かな米国という印象を改めて抱いたように思えた。

 今年6月7日に、岸田内閣は「骨太の方針」を閣議決定。NATO加盟国が掲げた「防衛費をGDP比の2パーセント以上に」という目標を例示し、日本も5年以内に防衛力を抜本的に強化することを明記した。その背後には米国側の要請があったが、安倍の強い意向が働いたことも事実だ。ウクライナ侵攻を受け、日本周辺でも、安全保障環境の危機が高まりを見せる中、安倍は防衛力の強化を急務と捉えていた。

 この日の夜、安倍は電話で「『5年以内』と何とか明記できてよかった」と満足げに語り、こう続けた。

「今でこそ米国はゼレンスキーを支持しているが、当初はウクライナとの首脳会談にも中々応じず、冷淡に見えた。さらにロシアの軍事侵攻後、米国はゼレンスキーに退避を促したが、拒絶されてしまっている。国際世論が俄然ウクライナ支援に急変したのを見て、対応を変えたのが実態だろう」

 そう言って、安倍は米国の変わり身の早さを指摘した。また、米国はロシアに対して厳しい制裁を科すとしながらも、軍事介入による抑止の意向は示さなかった。そのため安倍は、ウクライナ侵攻によりロシアが消耗することさえも米国は見越している、と考えている節があった。

 祖父岸信介が1960年に日米安保条約を改定して以来、日本外交の成否は、米国との距離感で評価が定まる傾向が強かった。だが、米国が「世界の警察官」の役割を担った時代は終焉を迎え、国際秩序は大きく揺らいでいる。安倍は強固な日米同盟を基軸としながら、対米追従に留まらない重層的な外交を目指した。

安倍外交の真骨頂

 第二次安倍政権では「ストロングマン」外交が求められた。米国のトランプ、ロシアのプーチン、中国の習近平、北朝鮮の金正恩、フィリピンのドゥテルテ……。独裁的で個性豊かな首脳が台頭する中、日本も生き残りを図らなければならなかった。各国の貿易政策や安全保障政策などはリーダー個人のトップダウン型の判断に左右されがちだ。しばしば予想困難な状況を強いられる。

 そんな中、安倍が採った外交戦略が「地球儀俯瞰外交」であり、具体的な手法が「テタテの最大活用」だった。これが、安倍外交の真骨頂だと私は見ている。地球儀俯瞰外交が導いた成果は後述するが、第二次政権発足時の所信表明演説で打ち出された。のべ176の国と地域を訪問し、米国だけでなく世界各国との二国間関係を強化。国際社会のルールメーカーとしての役割と、外交の仲介役を担うことを目指した。

 テタテ(tête à tête)とは、フランス語で「頭と頭をつきあわせる」「内緒の話」などの意味で、外交の場面では、通訳のみを介した首脳2人だけの一対一会談を指す。従来の日本外交は、外務省が相手国との事務レベルの交渉により「お膳立て」をする。その上で、首脳会談は事務方が用意した交渉事項を最終確認する「儀式」としての傾向が強かった。安倍はそれを一変させた。

 真の外交とは、首脳自身が相手国の感触を掴むことから始まる――安倍はそう強く意識していた。本来は複数人で議論するテーマも、首脳同士が抜き差しならぬ2人だけの会談で本心をつかみ、真意を伝え、譲歩を引き出す。そうしたディール(交渉)こそ、安倍の最も得意とする外交戦術だった。

 それが遺憾なく発揮されたのは、トランプとの首脳会談だ。2人は堅い信頼関係を結び、「蜜月関係」が注目されがちだったが、実は水面下で熾烈な交渉を繰り広げていた。私は安倍から、節目節目でその舞台裏をつぶさに聞き取ってきた。

 象徴的な場面がある。2019年8月25日、フランスで開かれた「G7ビアリッツ・サミット」でのことだ。安倍はトランプと約50分間の首脳会談に臨んだ。事件が起きたのは、冒頭取材が終わり、報道陣が会場から立ち去った後だった。

「もう終わりだ! こんなディールは馬鹿げている」

 トランプは怒りを爆発させると、安倍に向かって交渉打ち切りを通告した。その瞬間、臨席していた茂木敏充経済再生担当大臣とライトハイザー通商代表の顔からはサッと血の気が引いたという。

 トランプの言う「ディール」とは日米貿易協定のことだ。2017年1月、すでに12か国間で署名を終えていたTPP(環太平洋パートナーシップ)協定から、トランプが突然の離脱を宣言。米国は多国間協定から二国間や少数国間協定へとシフトし、日本も二国間協定を結ぶよう迫られていた。

「アンフェアだ」と主張

 会談中のトランプは次の出方が全く読めない難敵だ。笑いながらゴルフ話に花を咲かせたかと思うと、一転、急に深刻な表情を浮かべて北朝鮮問題を切り出す。安倍が話の途中であっても「どういうことだ!」「もう十分だ」と平気で遮り、感情に任せて自説を捲し立てる。数字の間違いや事実誤認も多々あったという。そんな相手に安倍は粘り強く交渉を続けた。

 トランプは日米貿易を「アンフェアだ」と主張し、会談の度に市場開放を猛烈に求めてきた。その主張は概ね、以下のようなものだった。

「米国は対日貿易で毎年700億ドルの赤字を被っている。日米同盟に基づき、莫大な費用をかけて日本を防衛しているというのに、あまりに不公平だ。自動車についても、米国は日本に対して低い関税率で何百万台も購入している。日本はもっと米国の農産品を輸入すべきだ。とくに牛肉が問題だ。日本はオーストラリアとの協定で、関税率を26%に下げるというが、オーストラリアなどTPPの加盟国と同じ関税率というのは我慢ならない。オーストラリアが米国のように防衛費を使って、日本を守っているというのか!?」

 一方の安倍も決して引き下がらなかった。テタテの機会を存分に利用し、トランプ政権以降、米国産牛肉の輸入量が圧倒的に増加していることや、自動車の現地生産により米国で大量の雇用を生み出していることを繰り返し強調。さらには近年における米国産化石燃料の輸入量の増加や、F-35など軍事品の調達量の増加などのデータを挙げ、一つ一つ懇切丁寧に説明していった。

 緊迫した交渉の結果、安倍は頑なだったトランプを納得させることに成功。自動車の追加関税についてトランプから「シンゾーと仲が良い間は課さない」との約束を取り付け、牛肉の関税もTPPと同じ削減率で日米貿易協定を結ぶに至っている。

 2020年8月に安倍が退陣を表明した際には、トランプがいち早く電話をかけ、「貿易交渉では正直負けたと思ったが、これもシンゾーの偉大な交渉力、そして人柄に屈したのだ」と吐露したが、これは日米貿易協定の熾烈な交渉過程を指している。

 のちに私は、トランプから交渉決裂を突き付けられた際、どのように事態を収束させたのか安倍に尋ねた。実はトランプの娘婿であるクシュナーが安倍に「義父には“90分ルール”の法則がある。その時間を超えると考えが固まり、方針を変えなくなる。私が今から義父を取り成すので、戻ったら、シンゾーからもう一度、交渉を挑んでほしい」と助言したという。しばらくして戻ってきたトランプに、安倍は何事もなかったように「ではドナルド、続きを」と声をかけた。するとトランプは頷き会談は無事に再開したのだった。

 安倍は感慨深くこう振り返った。

「さすがにあの時は肝を冷やしたが、クシュナーの言葉を信じて交渉を再開させるしかないと思った。どうしても日米貿易協定は実現する必要があった。何しろ国益が懸かった重大な案件だったからね」

トランプと安倍
 
成功したゴルフ外交

「あのバック転は10点満点」

 安倍がトランプの信頼を得た理由の一つにゴルフ外交がある。トランプはベストスコアが60台を誇るほどの腕前。大統領就任直後の2017年2月、日米首脳会談後にトランプが所有するコースで初めて2人はプレイした。その際に、トランプはこう打ち明けたという。

「人間関係を作るうえで、夕食会を何度も重ねるより、1回のゴルフのほうが効果的だ。私は、これまでの人生において、ゴルフ場でディールを結んできた。ゴルフ無しで自分の成功はなかったし、友人だって、ゴルフを通じて作ってきた」

 トランプにとってゴルフは、ビジネスそのもの――。安倍はそう感じた。このとき、トランプは、コースを移動し、1日で27ホールをプレイしようと提案した。

 同年11月。安倍は初来日となったトランプと、埼玉県川越市の霞ヶ関カンツリークラブで、再びラウンドを共にした。トランプが「ファンだ」という松山英樹プロも参加。松山のスイングを目の当たりにすると「見ろ、彼の下半身を! 全く動かないぞ」と興奮気味だったという。

 度々報じられた、安倍がバンカーで、いきなり後方にひっくり返るアクシデントもこの時に起きた。トランプはこの失敗談を大層気に入り、その後の首脳会談でも「シンゾーは、世界レベルの体操選手だ。あのバック転は10点満点だった」とジョークを飛ばす。すかさず安倍も「あそこは『シンゾーバンカー』と呼ばれているそうだ」と切り返して場を盛り上げた。そのような交流を重ねて2人の信頼関係は醸成されていった。

テタテ会談の如実な成果

 安倍とトランプの2人が、最も時間を割いて議論したのは「北朝鮮問題」だ。今年は、小泉純一郎元総理による電撃訪朝から20年の節目だ。当時、官房副長官として同行した安倍にとって、拉致問題の解決は悲願だったが、いまだにその兆しはない。しかし、安倍のテタテによる首脳会談の成果が最も如実に現れたのは、北朝鮮問題だったと言える。

 2016年11月17日、大統領選で、勝利を収めたばかりのトランプと会談すべく、安倍はトランプタワーを訪問。その時からトランプは北朝鮮に興味を示し、「どんな国なんだ?」「金正恩は天才なのか、それとも狂っているのか?」などと素朴な疑問をぶつけてきたという。

 安倍自身は、小泉訪朝の際に金正恩の父・正日に対面している。冷静な判断力の持ち主で、米朝の二国間協議を「二重奏」に、六か国協議を「合唱」に喩えるなど語彙力も豊富だと分析していた。そのため正恩も似たような資質を持ち合わせている可能性があるとみていた。

 安倍はトランプに自身の訪朝経験を紹介し、「北朝鮮外交の要諦」について、次のように具体的にアドバイスしている。

「サラミ戦術ではいけない。非核化を実現するためには、例えば6カ月から9カ月の具体的な期限を区切るべきだ。先延ばししてはならない」

 サラミ戦術とは、議題や措置の内容を出来るだけ細かく小出しに提示することで、その間に交渉相手から対価を獲得し、時間稼ぎを行う外交手法のことだ。

 当時はまだ国務省や国防総省から詳しいブリーフを受けていなかったトランプにとって、北朝鮮事情に詳しい安倍からの情報や分析は貴重だった。また、トランプはオバマから大統領を引き継ぐ際に「北朝鮮が米国にとって最大の問題であり、やがて戦争になる危険性も孕んでいる」との助言を受けている。トランプにとっても北朝鮮は喫緊の課題となり、やがて安倍に対して全幅の信頼を置くようになる。

 その端的な例が、2018年6月12日に開催された、史上初の米朝首脳会談だった。「北朝鮮との対話がどうなるのか、想像もつかない」「核を放棄するとは思えない」と不安を抱くトランプは、開催までの段取りから、会談内容に至るまでを、安倍に逐一相談していた。

 首脳会談の開催場所も当初、トランプは「板門店」を考えていた。だが、この年の4月に南北首脳会談が板門店で行われており、世界中にその印象が深く刻み込まれている。そこで安倍はこう主張した。

「史上初となる米朝首脳会談に、もっとふさわしい場所を選ぶべきだ」

 安倍が提案したのは「シンガポール」だった。煌びやかな摩天楼を金正恩に見せることで、経済発展の重要性を実感させる狙いもあった。トランプはあまり納得していない様子だったが、結果的に米国政府は、米朝首脳会談をシンガポールで開催することを発表した。

「拉致問題を提起してほしい」

 開催5日前の6月7日――。

「米朝首脳会談の場で、金正恩に日本政府の最重要課題である拉致問題を提起してほしい」

 安倍はトランプとのテタテによる会談で、こう依頼したという。

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source : 文藝春秋 2022年11月号

genre : ニュース 政治