暗殺前夜の電話

安倍晋三秘録 第1回

岩田 明子 政治外交ジャーナリスト
ニュース 政治
統一教会について私が問うと、安倍は言葉少なに──
岩田明子
 
岩田氏

安倍の周囲で「旧統一教会」の名前

 その日、永田町からほど近いNHK千代田放送会館で原稿を書いていると、携帯電話が鳴った。液晶には「安倍晋三」の4文字。午後10時27分のことだ。

 NHKの政治部記者だった私が、安倍の担当になったのは2002年、小泉政権の官房副長官時代からである。以来20年にわたり取材を続けているが、ここ数年、特にコロナ禍では、電話でのやりとりが日課と化していた。多いときは1日に複数回、取材のために電話をかけるときもあれば、安倍が情報収集や雑談するためにかけてくることもある。時間帯は決まって午後10時30分から深夜零時の間だった。

 この日、最初の話題は、辞任を表明したばかりの英国のボリス・ジョンソン首相についてだった。安倍は2019年にジョンソン首相との首脳会談に臨み、G7などの場でも顔を合わせている。電話口の向こうで感慨深げにこう語った。

「ジョンソン首相の辞意は、今後のアジア太平洋地域への影響を考えれば残念だね。内政が相当きつそうだったから、仕方ないのかもしれない。北朝鮮による拉致問題への対応を真っ先に支持してくれたし、日本にとって貴重な友人だった」

 一方の私は、あることで安倍に聞きたいことがあり、こう切り出した。

「井上さんが旧統一教会で『祝福』を受けたとの情報が入りました。事実ですか。どういう経緯だったのでしょうか……」

「井上さん」とは、第一次内閣で安倍の秘書官を務め、この7月の参院選に自民党比例代表の枠で出馬していた井上義行のことだ。この電話の2、3日前に、旧統一教会と接点が生まれたとの噂を耳にしていた。

「そうだね……」

 言葉少なに安倍は答えた。

 長きにわたり取材を続けてきたが、安倍の周囲で「旧統一教会」の名前を聞いたのはこの時が初めてだった。

 私はその時、表現しがたい違和感に襲われた。というのも、私が大学に入学した際、自治会や学部の先輩などが、旧統一教会の下部組織である「原理研」に対して、徹底した注意喚起を行っていたことが思い出されたからだ。

 また当時、同級生とその家族が、同団体に苦しめられた経験も鮮明に蘇った。正直なところ、四半世紀以上の時を経ていたこともあり、団体の存在すら忘れていた。

 安倍は私の問いにこう答えた。

「私自身は、さほど関与していないから……」

 2021年9月、安倍は旧統一教会の友好団体「天宙平和連合」のイベントにビデオメッセージを寄せている。山上徹也容疑者はこの映像をみて「殺害を決意した」と供述した。安倍は、日ごろから、多忙を極める中でも会場に駆けつける場合と、逆にビデオメッセージだけで済ませる場合がある。こうした使い分けで交流関係に違いを出し、ある種の距離感を滲ませていた。

 そのうえで安倍の言葉を振り返ると、祖父・岸信介の時代における旧統一教会との経緯や、米国との関係などを踏まえつつも、徐々に距離を置こうとしていた様子がうかがわれた。ただ、この話題は結局それ以上続くことなく、その他、参院選の情勢や、派閥「清和会」の現状などについて話をした。

「また明日」と言ったが……

 この時、安倍は選挙や政局は生き物であり、常に急変の危険性を孕むことを指摘した。その言葉を聞いて気になった私は、つい第一次政権と第二次政権、過去2度の安倍の退陣がどれほど衝撃を与えたか、口にしてしまった。すると安倍は「心配しなくても、もう、そういうことはありませんよ」と早口で遮った。

 ひとしきり話を終えると、安倍は「もうこんな時間だ。明日も遊説がある。また明日」と言って電話を切った。

 これが生涯最後の会話になると、誰が予想できただろうか。

 その翌日――。7月8日午前11時35分。安倍銃撃の1報を受けた瞬間、目の前が真っ暗になり、全身が脈打つような錯覚に襲われた。

 安倍は政治家のなかでも屈指の強運の持ち主だった。伊勢志摩サミットなど、ここぞという場面では雨の予報を裏切って雲を散らし、晴天を呼び込んだ。

「志半ばで命尽きるはずがない」

 冷静さを取り戻すために、何度も自分にそう言い聞かせた。第一次政権の退陣直後、失意による自殺説が流れたことがあった。その時も安倍は入院先からこっそり電話に出て、か細い声で応じた。きっとあの時と同じだ。「本当に大変だった。危ないところだった」と軽口を叩くに違いない。藁にもすがる想いで電話を鳴らし続けたが、2度と通じることはなかった。

山上容疑者
 
犯行直後の山上容疑者

警察への不満を口に

 今になって安倍とは寿命や運命の話をしたことが思い出される。

「親父(晋太郎)は67歳で亡くなって、総理になる夢を見ながらも幹事長で終わってしまった。岩に爪を立てて登っている最中のまさに無念の死だった。親父から残りの運を授かったことで、私は総理になれたのかもしれない」

 しかし、安倍もまた父と同じ67歳で非業の死を遂げた。「また明日」と、電話口で聞いた安倍の最後の言葉を頭の中で反芻するたびに、今回の事件を防ぎ、安倍の運命を変える手立てはなかったのかと考える。

 四十九日法要の8月25日、杜撰な警備体制の問題点が検証結果として報告された。ただ、問題は、地方警察の警備の限界という点だけに集約されるのだろうか。安倍はこれまでにも、自宅に火炎瓶を投げ込まれたり、刃物やガソリンを持った人物が敷地内に侵入するなどの被害に悩まされ続けてきた。こうした事案の真相究明を進めているとは言い難い警察の体質に、折に触れて安倍が不満を口にしていたのも事実だ。

 テロや無差別殺人事件が起こる際には必ず“前兆”がある。今回の事件も例外ではない。たしかに組織に属さないローンウルフ型と呼ばれる単独犯は事前に察知するのは難しいとされるが、山上容疑者はSNSで事前に犯行をほのめかしている。

 たとえば諸外国が積極的に取り入れている「OSINT」(オープン情報分析)を駆使して、事前に危険性を察知していれば、また違う結果になっていたのではないか。テロの脅威が国際社会で深刻化する中、日本警察の情報分析や警備の遅れが悔やまれてならない。

上司に担当替えを直訴

 先にも書いたように、私が安倍の番記者になったのは2002年、官房副長官時代からだ。ちょうど小泉純一郎が北朝鮮を電撃訪問する2カ月前。当時の安倍は対峙しても、こちらを一瞥するだけで多くを語らず、掴みどころのない政治家という印象だった。中々距離が詰まらないことに焦り、上司に「担当を替えてほしい」と直訴したこともある。

 取材先から核心情報を入手できるようになることを、業界用語で「刺さる」と表現するが、当時の私には、安倍に「刺さる」ことは到底難しく、取りつく島もない状況だった。

 ただ私がかつて法務省を担当し、当時、東京地検特捜部が手掛けていた坂井隆憲議員への捜査の読み筋などで若干の知見を得ていたことに、安倍は興味を示し始めた。それを契機に、少しずつ会話を交わす回数が増えていった。

 結局、20年にわたり取材を続けることになったわけだが、膨大な回数の会話を重ねてきた。安倍は1度懐に飛び込むと気さくな素顔を見せる。ともに睡眠時無呼吸症候群に悩まされていた時は(治療機器の)CPAPの操作方法や翌朝の熟睡感などを細かく尋ねてきた。また電話中に突然、地震が起きると「きたきたっ、これはかなり揺れるぞ! そちら、家具は大丈夫?」と実況中継のような反応を見せたりもした。どの場面も鮮明に覚えている。

 私が体調を崩して入院や手術などを経た際には「運動量を増やして筋肉をつけないとね」と健康を気遣ったり、最近では、取材で出会ってから20年の歳月が流れたことを懐かしむ言葉を口にすることもあった。そうした折、「岩田さんが私より先に逝ってしまった場合は、葬式を仕切ってあげるから、あまり将来を心配しすぎないほうがいい」と冗談めかして、温かみのある言葉をかけてくれることもあった。

 死後多くの人が語っているが、愛嬌のある素朴な人柄が「人間・安倍晋三」の魅力だった。

 日々の電話に加え、富ヶ谷の自宅や議員会館、総理公邸……、国内外あらゆる場所で取材を重ねてきた。それは第一次政権退陣後、5年にわたる雌伏の時期も間断なく続いている。そうした取材成果は「NHKスペシャル」や特番に加え、「文藝春秋」で折に触れて伝えてきた。7年8カ月に及ぶ歴代最長政権を築いた安倍の肉声を報じることは、今後の日本政治における重要な判断材料になると考えてのことだ。今回、志半ばで生涯を閉じた安倍の政治人生を書き残すことは、記者としての私の責務だと考え、筆を執ることにした。

安倍晋三
 
安倍晋三

台湾有事は5年以内に起こる

 安倍には「見果てぬ夢」があった。もう一度、総理大臣の座に返り咲くことである。仮に「第三次政権」の発足があるとしたら、2024年を念頭に置いていた。国内外で同時多発的に波乱が起きると踏んで、着々と準備を進めていたのだ。

 2021年3月17日の夜のことだ。安倍は富ヶ谷の自宅に麻生太郎を招き、2人で酒を酌み交わしていた。政治観を微妙に異にしながらも、長年の盟友である麻生とは肝胆相照らす仲だ。実はその晩、2人は「台湾海峡の有事は5年以内に起こるのではないか」と話している。

 米国の力の空白を見据え、仮に中国が台湾への武力行使に踏み切るとすれば、バイデン大統領と台湾の蔡英文総統が交代する2024年から25年の可能性も排除できない。これが安倍と麻生の共通認識だった。

 沖縄、台湾、フィリピンを結ぶ第一列島線の軍事バランスにも平時から目を光らせており、第二次政権発足後、安倍は、秘書官に命じて極秘の机上訓練を度々行っていた。遅くとも2030年代には米中両国の軍事力が均衡状態となり、有事の際には、沖縄に米軍基地を保有する日本が中国の攻撃の対象になる。その事態を念頭に、安倍は米軍が駆け付けるまでの日本の継戦能力も憂慮していた。

 台湾有事が起きた場合、全世界の首脳と交渉し、陣頭指揮を執ることができるのは自分しかいない。そんな自負が安倍にはあった。だが一方で、「総理3選」について慎重な姿勢も崩さなかった。

「日本を守るために私が前線に出る必要が本当にあるかどうか。それは天が決めることだ。仮に自分が望まれるなら、自然と機運が高まり、私に対する熱気が一気に高まるはずだ。もし、そうならない場合はバックヤードで支えろということ。しっかり現職の総理大臣を支えるのが使命だ」

 安倍が「総理3選」への意欲を燃やした背景には、任期を1年残す中で第二次政権の退陣を余儀なくされた悔恨の念がある。

 2020年8月28日午後2時過ぎ。安倍退陣の意向がNHKの速報で流れると、自民党内や議員会館はたちまち報道陣で埋め尽くされた。安倍の重病説が1カ月近くも乱れ飛び、その進退が注目を集めていただけに、熱気は近年に例を見ないほどだった。

 退陣表明の3週間近く前、8月10日の電話で病状について初めて打ち明けられた。

「持病が再発してしまった。(睡眠薬の)マイスリーを飲んでいるが、なかなか寝れなくて困る。私が体調を崩してしまったから、秘書官たちがすごく落ち込んでしまったんだ……」

 その声はいつもより暗さを帯びていた。持病とは第一次政権退陣の原因になった潰瘍性大腸炎のことだ。その瞬間、私の中には当時の安倍の沈鬱な表情が浮かび上がり、「退陣」の2文字が脳裏をかすめた。

 4日後の電話でも苦しみの声を漏らしていた。

「多分、今が(症状の)ピークだろう。長年にわたり薬を多めに飲み過ぎてしまったことが原因かもしれない。これまでの8年間、全力疾走だったから」

「新しい薬が効くかどうか」

 2012年の第二次政権発足以降、安倍は治療薬アサコールに助けられながら、大腸の炎症をコントロールしてきた。また夜更かしがちだった習慣を改め、夜には携帯電話を別室に置き、定期的にジムで汗を流す生活を心がけた。国会の会期中以外は富ヶ谷の私邸に帰宅。夏季休暇は河口湖の別荘で友人たちと過ごすなど、意識的にオンとオフの切り替えに腐心した。腸の天敵はストレスであり、働きづめだった第一次政権時代の教訓を踏まえた。

 だが、8年近くにおよぶ長期政権を運営する中での負担が安倍の体調を蝕んでいた。さらには新型コロナへの対応という前例のない難題が追い打ちを掛けた。

 6月13日の人間ドックで炎症を示す異常な数値が出たことで、医師から「秋に再検査を」と告げられ、7月中旬には安倍自身が持病の再発を明確に自覚する。一気に食が細くなり、体重が誰の目にも明らかなほど落ち始めた。重病説が流れ出すのもこの頃からだ。

 7月22日、安倍は、ステーキ店「銀座ひらやま」で自民党幹事長の二階俊博、ソフトバンクホークス会長の王貞治らと会食した。安倍は大の肉好きで、普段はTボーンステーキをペロリと平らげる。だがこの日は、野球談議に花を咲かせる二階や王の笑い声に合わせながら、密かに肉をサイコロ状に小さく切るよう店主に依頼していた。7月30日には政調会長だった岸田文雄とパレスホテル内の「和田倉」で食事をしながら政局について幅広く意見を交わす予定だったが、1時間半で早々に切り上げている。

「13年前の退陣と酷似している」

 安倍は焦燥感を募らせた。8月6日の原爆の日に広島平和記念式典で記者会見に臨むが、広島空港や会見直前のトイレが異様に長く周囲を心配させた。翌日には足取りの重さも指摘される。もはや限界だった。

 コロナ対応への批判も高まり、8月16日の電話では珍しく、こんな気弱な心境を吐露していた。

「日本は、『こいつは叩ける』と思った途端、みんなで襲いかかるような国になってしまった。いつからこんな国になってしまったのか。本来の美しくて優しく、しなやかな日本を取り戻したかったのに……」

 いま振り返ると、翌17日こそが、安倍が退陣に大きく傾いた日ではなかったか。慶大病院に検査で約7時間半も滞在。マスコミが殺到し「退陣間近」との憶測が飛び交った。

 その夜、安倍はこう語った。

「今日、検査に行ってきたが症状が悪かった。実は、新しい薬があるそうで、これが効くかどうか。明日一日よく考えてみる」

 新しい薬とは生物学的製剤と呼ばれる「レミケード」のことであり、検査後に2時間半にわたり点滴で投与していた。

 安倍の声は極めて不安げだった。私は思わず、退陣を思い留まるべきだと直言した。

「あまり私を煽らないで。今日は睡眠剤を飲んで、よく眠ることにするよ」

 安倍は、それだけ言うと電話を切ってしまった。すぐさま、激しい反省の念が込み上げてきた。

 13年前、安倍が退陣の可能性をほのめかした際、私は内閣改造を断行すべきとの意見を伝えた。それがかえって安倍の悩みを深めたようで、明らかに記者の領分を踏み越えた発言だった。以来自分を「私は当事者ではない。一記者に過ぎない」と戒めてきたはずだった。

 一時的に体調の改善は見られたものの結局、安倍は8月28日に退陣を表明する。新型コロナの感染拡大がピークアウトし、臨時国会で新たな首相が対応できるよう逆算して退陣のタイミングを計った。そこには「投げ出し」と批判された第一次政権の反省を徹底的に踏まえ、後進への道筋をつけることに腐心した形跡が見て取れた。

膨らむ総理3選への意欲

「第三次政権に向けて、そろそろ始動という感じかな」

 退陣からまだ1カ月ばかりの9月30日のこと。安倍の不意を衝くような発言に驚かされた。睡眠を十分に取り、ストレスのない生活を送ることで英気を養ったという。新薬レミケードが劇的な効果を上げ、数値もすっかり改善している。ただ、その時は冗談とばかり思い、私も真に受けなかった。

 だが、その後、安倍の総理3選への意欲は少しずつ膨らんでいく。

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source : 文藝春秋 2022年10月号

genre : ニュース 政治