投げられたガム

第63回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ 昭和史

 一年余りにわたる苦難の満州引揚げを経て、日本にたどり着いた私達母子四人だったが、ソ連軍に抑留されていた父もその数ヵ月後には運よく帰国した。父は中央気象台に復職し、昭和二十二年初夏、焼け跡に急造された十坪ほどの粗末な官舎の一つに、家族五人が住めるようになった。官舎の南には宮城(きゅうじょう、皇居)があり、北の塀を越えると幅数メートルの雑草地の先に神田川が流れ、向う岸にはみすぼらしいトタン屋根の家々や、タイヤや油缶のちらばる修理工場などが並んでいた。

 四歳の頃、この雑草地で遊んでいたら一歳下のミキちゃんが川向うを指し、「あれ何だ」と言った。見ると白い布のついた何かが川面をゆっくり流れている。「あれ、人じゃないか」と私が言った。白い布が父の越中褌と同じだったからである。動転したミキちゃんは走って家に戻り、兄で五年生のマサキちゃんを連れて来た。マサキちゃんは浮遊物を見るなり「土左衛門だ」と叫んだ。私が「誰、それ」と聞くと、「土左衛門も知らないのか、バカヤロー。溺れて死んだ奴のことだ」と言った。向う岸では二人の男が物干し竿で死体をたぐり寄せていた。軍隊帰りで死体に慣れているのか、二人は岸まで来た死体の腕を無造作につかむと力まかせに引き上げた。岸に上げられた死体は青白かった。私は急に怖くなって家に走り、母に「ド、ド、ドザエモン見ちゃった。マサキちゃんが溺れて死んだ奴だって」と言った。母は驚いた風でもなく、「溺れたんじゃないよ。生活が苦しく、身寄りを戦争でなくし、世をはかなんだ可哀そうな人だよ、きっと」と言った。「ああ恐かった。死んだ人、初めて見たよ」と青白さを思い出し身震いしながら言うと、「初めてだって。何言ってるの。引揚げの途中でさんざん見てきたじゃないの、たった二年前よ」と呆れたように言った。

 この頃、父の伯父で中央気象台長の藤原咲平が公職追放となった。戦時中、陸軍からの依頼で風船爆弾製作に携ったという理由だった。風船爆弾とは直径十メートルほどの風船に水素を詰め、爆弾を下に吊るしたもので、ジェット気流に乗せ、米本土で落下爆発するよう設計されていた。千発ほどが米本土に到達し爆発した。パニックを恐れた米軍はこれを内密にした。

 終戦後、日本を占領したアメリカは、戦争責任者ばかりか、気に食わない人物を次々に追放した。降伏一ヵ月後の朝日新聞上で、米軍による原爆投下を非難した鳩山一郎や、東洋経済新報で「米国は日本に平和思想を植え附けると言うが、果たして米国がその使命にふさわしいか」と糾弾した石橋湛山も公職追放された。戦時中一貫して東条政権や軍部を批判していた二人だった。衆議院議員の八割、財界、学界、言論界の有力者の多くが追放された。

 アメリカは占領後間もなく、日本に対するWGIP(罪意識扶植計画)を開始し、その一環として何と言論の自由を封殺したのである。とりわけ、勝者が敗者を裁いた東京裁判、アメリカが一週間で作った新憲法、秘かに行なっていた検閲、市民を大量虐殺した原爆投下、などへの批判には極めて神経質になっていた。そのために数千人の日本人協力者を使い広範囲に見張っていた。検閲は新聞、雑誌ばかりでなく、高層気象課長補佐にすぎない父への私信までが封を切られセロハンテープが貼られていた。彼等の目的は、三百万の日本国民が殺され、国際法違反の無差別爆撃により日本中の都市が廃墟となった責任は、すべて日本の極悪非道の軍部や軍国主義者にあるのであり米軍にはない、と日本人に刷りこむことだった。自らがそう信じ、日本人にそう信じこませることで、原爆投下という世界史に永遠に残る戦争犯罪への免罪符を得ようともしたのである。

 アメリカはさらに、「太平洋戦争史」なる宣伝文書を作成し、昭和二十年の十二月から各日刊紙に連載し始め、学校の歴史教科書として使わせ、同時にNHKラジオでこれを「真相はこうだ」として毎日曜の夜八時から三十分間放送させた。徹頭徹尾、日本軍の侵略性と残虐さを一方的に誇張し、人道的でやさしいアメリカが、善良な日本人を悪辣な軍部の手から救い出しにやって来た、と吹聴した。洗脳は、誠実で人を疑わない日本人に対し画期的成功を収めた。大多数の日本人がこれらを心から信じ、戦前や戦中の全否定は良識の一つとなり、それを高唱することで道徳的優越を感ずるまでになったのである。進駐軍に密告する人間も出てきた。咲平は月に一度の研究会にも参加できなくなった。父は、「兵士が野に山に海に命がけで戦っているとき、祖国のために何かしたい、と考えるのは人間として自然で、軍国主義とは無関係なのに」と嘆いた。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

genre : ライフ 昭和史