正義を振りかざす

第62回

藤原 正彦 作家・数学者
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 アメリカ合衆国の独立宣言にはこう書いてある。「我々は次の事実を自明と信ずる。すべての人間は平等であり、生存、自由、そして幸福の追求など誰も奪うことのできない権利を神により与えられている」。起草したのは三十三歳のヴァージニア代議員で、建国の父の一人と言われるトマス・ジェファソンである。ただ私のようなヘソ曲がりは、「自明」と信ずるなら神など持ち出すな、と思ってしまう。彼は第三代米大統領となった時に、インディアン絶滅計画を精力的に推進し、自らの大農場には六百人の黒人奴隷を所有した人物だ。この自由と平等は、国王の圧政に苦しめられてきた欧米の基本精神となり、フランス大革命での人権宣言でも、第二次大戦後の国連による世界人権宣言でも冒頭に掲げられ、世界の基本精神にまでなった。

 とは言え、絶海の孤島で一人暮らしの人間ならともかく、社会で生きている限り、自由はことごとく制限されている。自分の自由と他人の自由がぶつかるからだ。それに法律、道徳、倫理、慣習、公序良俗とがんじがらめに縛られている。言論の自由だって誹謗中傷はもとより、周囲の人々を不快にしないよう細心の気配りが要求される。だからこそ英国では食事中に政治を口にしないし、私は数限りない女友達との妖しくもせつない思い出を、女房の前で語ったりしないのだ。無論、頭をかいたり鼻をほったり、妄想にふけったり、などの個人的自由は存分にある。ただ、幼稚園の頃の次男には鼻をほる自由も与えなかった。片端から食べるからだ。独立宣言や人権宣言の自由は無論、個人的自由でなく社会的自由だが、こちらは束縛で埋められた社会の中の小さな隙間にあるにすぎない。絶対になくてはならない社会的自由は、「権力や権威を批判する自由」くらいかも知れない。私がロシアや中国をまったく信用しないのは羞恥心とこの自由がないからである。

 平等の方は自由より見つけにくい。区別と差別の違いも難しい。女風呂や女子大に男を入れないのは区別だ。そもそも人間は無数の属性を持つが、平等に与えられているものは何一つない。不平等な人々を平等に扱うと不平等を固定することになりうる。厳正平等な東大入試の結果、東大生の親の年収は約半数が一千万円以上、入学者数上位二十校のうち十五校が有名私立高となっている(二〇二一年度)。中高一貫の有名私立校に行かせる余裕のある家庭の子が東大に入るという構造だ。これら合格者も中流以上になるだろう。平等が不平等を固定している。ケンブリッジ大学の入試に携った時、一流私立中高出身者の代りに、合計点が八点ほど低い地方の公立高出身者を合格させたことがある。一流私立中高では生徒一人一人にパソコンがあり、芝生のラグビーグラウンドがあり、理系教師はみな博士号を持っていたりする。恵まれていない地方の公立高校にいて合計点が八点しか違わない場合、こちらを合格させるのが平等というのが教授達の言い分だった。東大が形式的平等、ケンブリッジが現実にある不平等を考慮に入れた主観的平等と言えよう。日本でなら大問題となるケンブリッジ方式だが、どちらも平等である。

 先の参議院選での議員一人当たりの有権者数を比べると、神奈川県は福井県の約三倍だった。これを見て、「日本国憲法で定められた法の下での平等に反する」などと正義を振りかざす人がいて、十六件の訴訟が起きた。高裁などが検討した結果、違憲一件、違憲状態八件、合憲七件だった。平等の定義がないから論理的結論など出るはずもないのだ。アメリカの上院議員は各州二人ずつだ。一票の格差が六十六倍の州があっても騒ぐ人はいない。国連だって人口四万のモナコと人口十四億のインドは同じ一票だ。

 平等は社会ばかりか家族にもない。私が中学生の頃、珍しくステーキ用ビーフが一枚手に入った。夕飯時にそれを焼いた母は黙って父の前においた。民主主義で育った子供達が口を尖らせると母は、「子供などものの数ではありません」と一喝した。朝から夕方まで気象庁で働き、帰宅後に夕飯を食べるや、「戦いだ、戦いだ」と言いながら階段を登り夜十二時まで原稿を書く、という重労働の父を優先したのである。平等より大切なものがあることを示した母と、悠然とステーキを平らげた父は偉かった。我が家では今でも平等などない。賞味期限が二週間前に切れた豆腐や、三週間前に切れた納豆を、女房は息子達でなく必ず私の前においてくれる。

 自由、平等、人権の獲得は歴史上の金字塔だが、「取扱い注意」であることはしばしば忘れられる。自由の名の下に、生成AIのごとき怪物が作られた。これは非常に有能な道具だが、学生生徒の学習を阻害し、著作者、芸術家、出版社、新聞社の著作権で成り立つ出版文化を破壊し、犯罪や他国からの世論工作を惹起し、何より世界を真偽混沌の巷にしてしまう。平等や人権を振りかざしたメルケル元独首相は、EUへの大量移民を容認した結果、秩序、経済、社会保障、教育、伝統などに深い傷を与えてしまった。ヨーロッパはもう立ち直れないだろう。また平等があるから、消費税を年収五百万円以下には〇%、二千万円以上には二〇%とすることもできない。地方の衰退を打開する一案として、過疎地での法人税や住民税をゼロにし、その分は東京都での法人税や住民税上げで補う、ということも考えられるが不平等として論外となる。

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source : 文藝春秋 2024年7月号

genre : ライフ 社会 政治 国際 ライフスタイル