明治維新は新しい時代への幸せな門出とはならなかった。明治元年の、日本史上最も大規模で残酷理不尽な内戦である戊辰戦争、同年の神仏分離令で始まった日本文化史上最大の汚点、廃仏毀釈のためである。これらにより東北地方は荒廃し、日本各地の寺は破壊され仏像、仏具、経典は焼かれ、奈良時代以来の神仏習合という美しい伝統文化は激しく傷つけられた。二〇〇一年のイスラム原理主義者によるバーミヤン遺跡爆破は世界中に衝撃を与えたが、廃仏毀釈の規模は比較にならぬほどの蛮行であった。
明治四年、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など政府の主要メンバーは、幕末に欧米各国と結んだ一連の通商条約(不平等条約)を改正するという名目で、米、英、仏、独、露などに出発した(岩倉使節団)。薩長中心の総勢一〇七名の大派遣団だった。一年十ヵ月の長期にわたったが、権謀術数と武力で政権を握っただけの人々で、幕閣の小栗忠順や川路聖謨のような学識も教養も外交経験もなかったから、条約改正などできるはずもなく、先進諸国を見物して来ただけだった。
留守組の西郷隆盛や板垣退助たちは、外遊組と出発前に交した「外遊中に大きな改革を行わない」という約束を破り、矢継早に大改革を実行した。日朝間の国交樹立のため西郷を特使として訪朝させる、ということまで決めていた。訪朝をしたら暗殺必至の状勢だった。帰国した外遊組は、西郷暗殺を口実に征韓に乗り出すつもりでいる、と直ちに見抜いた。西郷が目的のためには他人の命をとるのはもちろん、自らの命を捨てることさえ何とも思わない人間であることを熟知していたからである。そこで寝技師岩倉が得意の天皇工作をし、西郷訪朝を覆した。怒った西郷や板垣は辞表を出し郷里へ戻ってしまった。何もかも、新政府、すなわち薩長を柱としたかつての尊王攘夷の志士たちのドタバタ劇だった。
豊かで強大な藩とか高邁な思想を掲げた人々でなく、薩長という貧しい藩の無学の人々がなぜ明治維新という革命をなしとげ、明治時代をも牛耳ることができたのかは私にとって不思議だった。
今夏、友人で鹿児島在住の数学者T氏が興味深い論考を送ってくれた。明治中期に鹿児島県で小学校教員をしていた本富安四郎という人の『薩摩見聞記』について考察したものだ。見聞記には新潟県長岡出身の本富氏の新鮮な目に映った鹿児島県人の特徴が四つ挙げられている。(一)質朴、正直、勇猛、(二)親切で情に厚い、(三)感情の激しさが著しい、(四)団結力が強い。大体は日本人共通の美質である。興味をひいたのはその補足、「質朴にして無造作なる薩人には甚だ不似合と思われる程駆引きに熟し、謀略的思想に富むこと」だった。確かに、幕末の薩摩を見ても、公武合体を主唱し禁門の変では京都守護職の会津藩と協力し長州を撃破したと思うと、すぐ後で長州と組み討幕に転じ戊辰戦争では会津征伐に血眼となった。薩英戦争で戦った英国とすぐに親密な関係を結んだ。原理原則も理想も節操もなく駆引きに邁進した。明治天皇による「討幕の密勅」(偽勅と言われる)を、岩倉と組んででっち上げるという謀略さえ実行した。
T氏が注目したのは前述の特徴(三)の補足として記された次の一文だった。「薩摩人士が一般に科学を好まず、特に数学に不得手なのは、感情激しく気短かで、忍耐と理想に乏しく、一度試みて成功しなければすぐに放棄してしまうからである」。ここからT氏は日本における算額について調べた。江戸時代の和算家は、数学の難題が解けるとそれを額や絵馬に記し神社や仏閣に掲げ、神仏への感謝を示すと同時に自己の成果を誇示した。この算額は、世界のどこにも見られない日本独自の文化だった。全国に八二〇面ほど現存するが、算額の見あたらない県が鹿児島、山口、高知、佐賀、熊本、宮崎の六県だけであることにT氏は気付き、「この地域には数学を楽しむ文化、探求する文化は存在しなかったのでは」と推測する。藩閥政治を行った薩長土肥がこの六県にすっぽり入っていることに私は驚いた。
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