何のために

古風堂々 第56回

藤原 正彦 作家・数学者
エンタメ テクノロジー スポーツ

 将棋の世界を藤井聡太君が席巻している。二〇一六年に十四歳二ヵ月という史上最年少で四段に昇段すなわちプロ入りを果たしてから、勝ちに勝ちまくり、二〇二〇年から今年までの三年間に棋聖、王位、叡王、竜王、王将、棋王、名人、王座とすべてのタイトルを獲得してしまった。二十一歳ということは今世紀生まれだ。つい先日産声を上げたようなものだ。将棋を知る人も知らない人も藤井君を大好きなのは、野球を知る人も知らない人も大谷翔平選手を大好きなのと似ている。藤井フィーバー、大谷フィーバーは社会現象であり、コロナで暗かった日本人の心を明るくしてくれた。

 プロ棋士となったばかりの中学生がその四年後にタイトルを片端から獲り始めたというのは、この四年間に急成長したということである。実際、プロになる直前の奨励会三段時は、リーグ戦で十三勝五敗と極端に強いというほどではなかった。プロも参加する詰将棋解答選手権で小学校六年生の頃から五年間も優勝し続けたところに、大器の片鱗は見えていたが、詰将棋を速く解けることは棋士としての大成に直結しない。数学の受験問題を速く正しく解けることが数学者としての大成に直結しないのと同様である。

 この奨励会三段時代に、藤井八冠は将棋ソフトを研究に使い始め、戦法が変わるなど大きく成長したと言われる。

 二〇〇〇年以前の将棋ソフトは極端に弱く、私のうさ晴らしの道具であった。大学の会議などでムシャクシャすると研究室で大学院生がくれた将棋ソフトと対戦し、コテンパンにやっつけ、ストレスを解消していたのである。その頃のソフトは素人初段の私より弱かった。チェスではすでに一九九七年にソフトが世界チャンピオンを破っていたが、将棋ははるかに複雑だから遅れていたのである。ところが二〇〇〇年代に入って将棋ソフトは急速に進歩し、二〇一〇年には素人ではとうてい勝てないほどになり、二〇一六年には一流プロでも勝てなくなった。この年に藤井君は研究にソフトを使い始めプロ入りもしたのだから、将棋ソフトの申し子と言えよう。

 二〇一七年に革命が起きた。将棋より複雑な囲碁で「アルファ碁」というソフトが世界最強棋士を破ったのである。二〇二〇年頃にはこれを真似て、ディープラーニング(深層学習)を用いて作られた将棋ソフトが登場した。現在、藤井八冠など若手棋士に広く使われているようである。

 一九九五年の夏、ケンブリッジ大学の同僚からメールが来た。「マサヒコの教えていたクイーンズ・カレッジにデミス・ハサビスという十九歳の青年がいる。私が数学と碁を教えているが、十三歳でチェスのマスターになった神童だ。近々彼が東京に行くから会ってくれないか」。小柄で度の強い眼鏡をかけたハサビスは、いたずらっ子のような風貌でお茶大の私の研究室を訪れた。一時間ほど話したが、「世界最強プロを負かす囲碁ソフトを作るのが夢」と言うので励ました。将棋を指したいとも言ったから、友人の息子で東大将棋部のM君を紹介した。M君には負けたらしい。

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source : 文藝春秋 2024年1月号

genre : エンタメ テクノロジー スポーツ