ベラルーシの茸狩り

古風堂々 第52回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース 国際

 二十年余り前、ベラルーシの首都ミンスクにある科学アカデミーで講演した。講演後、招待してくれたベルニク教授が茸狩りに誘ってくれた。私の故郷信州では十月上旬が茸狩りの季節だ。まだ九月上旬である。不思議に思い尋ねると「北緯五十四度」との答えだったので合点が行った。樺太の北端くらいだからだ。茸は面白いようにとれた。私が適当に集めた茸を教授が選別し不要なものを捨ててくれた。信州の唐松林によくあるジコウボウもあった。従妹夫婦も参加した教授宅での夕食では夫人が茸を使ったいろいろな料理をふるまってくれた。ほぼ茸料理だけだったが、皆上機嫌でウォッカを飲み続けた。数分に一度は乾杯するから、まともにつきあっては死んでしまう。途中から私はなめるだけにした。この国の一人当たりアルコール摂取量は世界一で、男性の平均寿命は六十七歳ほどであった。私との会話は英語だったが、私が大学一年の時に少しだけかじったロシア語で「ボルガはロシアの河です」と言ったら、皆が「完璧な発音」と大げさにほめてくれた。

 ベルニク教授はウォッカを浴びるほど飲んだ後、恐がる私を一笑に付してから車でふたのないマンホールを上手によけつつ、宿舎まで送ってくれた。飲酒運転は事故を起こさない限りよいのだろう。

 素敵なホテルがあればよいのだが、冷戦が終わって日の浅いベラルーシにそんなものはなく、科学アカデミー宿舎の陰気な廊下の先の陰気な部屋の、スプリングの抜けたベッドで眠った。食事が出ないので翌朝は食堂を探しに肌寒い外に出た。午前八時の街はまだ薄暗かった。首都というのに半時間歩いてもレストランやカフェが見つからず朝食抜きとなった。ソ連から解放されたものの初代大統領のルカシェンコが統制経済を実行していて、ソ連時代と変わりばえしないようだった。歩きながら講演を聴きに来た院生Kさんの言葉を思い出した。

「私達は大統領にさして不満を持っていません。民主主義への期待は裏切られましたが、富の分配政策や食品など必需品の低価格設定により、激しいインフレにもかかわらず人々は一応安定した生活を送れているからです」

 教授は親切で、「ソーニャ・コワレフスカヤの故郷を見たい」と以前話したのを覚えていて、この日に連れて行ってくれることになっていた。十九世紀後半に解析学で一流の業績を挙げた女性数学者である。そこは三百キロも北のヴィテブスク郊外にある。教授は塗装のはげた十数年前のソ連製小型車で迎えに来た。これで長旅かと嘆息まじりに眺めていたら、運転席から長女のワーリャが出てきた。ジーンズに長い脚をくるんだ妙齢の彼女は、「父一人では心配だから応援に来たの」と実に好ましいことを言い、栗色の髪の下からくりっとした目で私に微笑んだ。

 素晴らしい旅になると思ったが、ワーリャの運転がひどかった。急発進、急停止、急ハンドル、Uターンの連続で、ミンスクを出るまでに後部座席で数回、身を横たえた。市内を出ると道が広くまっすぐの上、一分に一台くらいしか車に出会わないというワーリャ向きの道路となった。初めて背もたれに寄りかかることができた。山は一つもなく林、畑、牧場が続いた。道路沿いで農夫が足下にリンゴの入ったバケツを置いて立っていたので、朝食を食べそこなった私は車を停めてもらった。歯の抜けた貧弱な身体を粗衣に包んだ農夫に値段を聞くと「一バケツ四万ルーブル」と言った。少々あわてたが換算すると八十円ほどだった。一日の客数を尋ねると「一人くらい」と言ってにっこり笑った。申し訳ない気持で農夫に深々とお辞儀した。車に戻ると私のショックを感じたのか教授が、「お金はなくとも、パン一斤と牛乳一リットルがともに十円くらいに抑えられているからどうにかなるんです」と言った。リンゴは甘味も酸味もなく一つ食べるのに苦労した。

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source : 文藝春秋 2023年9月号

genre : ニュース 国際