思いがけない連環

古風堂々 第48回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース 社会

 二十年余り前、私は三鷹に仕事場を借りていた。自宅にも書斎はあったが、うるさい三人息子や、もっとうるさい女房から解放され集中しようと、講義のない週三日ほど、片道三キロ半の道を歩いてこのマンションに通った。ここの掃除をするおばあさんと仲良くなった。私には出身地を聞く癖がある。タクシーの運転手にもよく尋ねるし、デパートなどの店員にもしばしば(可愛いければ必らず)尋ねる。名前はほとんど何の情報ももたらさないが、出身地は多大な情報をもたらすからだ。大学で教えていた頃、四月に新しくついたゼミ生には自己紹介をしてもらっていたが、出身校はすぐ覚えても名前は覚えられず、学生達をよく「掛川西」「川越女子」「山形東」などと呼んでいた。九月頃になって、「そろそろ名前も覚えて下さい」などとよく文句を言われたものだ。

 このおばあさんにも出身地を聞いた。「山形県です」「山形県のどこ」「山元村という山奥の村です」。びっくりした私が「えっ、『山びこ学校』の」と声を上げたら、今度はおばあさんがびっくりしたのか口を開き、目を真ん丸にして私を凝視した。東京に山元村を知る人がいるとは思わなかったのだろう。

『山びこ学校』は山元村で中学校教師をしていた無着成恭氏が終戦後、生徒の作文を集め著した本で私の小学生の頃の愛読書だった。家が貧しく農作業手伝いのため毎日は通学できない生徒、わらびや炭をかついで売りに行く生徒、極貧のうえ母親が死んだため幼い弟が明日にはもらわれて行くという生徒、などの作文に私は大いに胸を打たれた。講演のため山形県上山市を訪れた時は、車で二十キロほどの曲がりくねった山道を走らせ山元村まで行ったほどだ。

 この話をしたらおばあさんは「えーっ、あんな田舎までわざわざ」と呆れたようだった。「山元村の急な坂道を車でゆっくり走っていたら、角に『佐藤藤三郎』という表札を見つけ驚きました。クラスの級長で実にしっかりした考えの生徒だったから覚えていたんです」と私が話した。と、おばあさんはしばらく絶句してから「実は、はい、姉が佐藤藤三郎に嫁いでいます」と言った。これには私の方が仰天した。一階のエレベータ前で私達は長い間山元村の話に花を咲かせた。おばあさんは「日本は狭いんだねえ」と何度もつぶやいた。

 ケンブリッジにいた頃、七歳の長男がバイオリンをロンドンに住むバイオリニスト、マユミ・ザイラー先生に習っていた。ドイツ人ピアニストを父、日本人ピアニストを母にもつ彼女を、東京での先生がモーツァルテウム音楽院での級友として紹介してくれたのである。週末に一時間をかけて長男をロンドンまで連れて行く役を、五歳と一歳の幼児を抱える女房を思い、私が進んで引受けた。マユミさんはまだ二十代の、長い黒髪の美貌の人だった。

 ある日のレッスン後、ザルツブルクから訪れていたマユミさんの母親ミエさんが現れ私に言った。「マユミから藤原さんは数学者と聞きましたが、小平邦彦さんという数学者を知っていますか」「知っているどころでは。私共の仲人をしていただきました。先生御夫妻の仲人は私の祖父の兄がしました。先生の父上と小中高大を通して親友だったからです」「まあ何という縁、実は私、ジュリアード音楽院を出た後、プリンストン大学の小平さんのお嬢さんにピアノを教えていましたの」「えーっ。それはいつ頃でしたか」「一九五五、五六年辺りです」「ちょうどその頃、女房がそこで生まれました。女房の父親は化学者ですが小平先生と親しかったようです」「まあ。もしかしたら奥様にお目にかかっていたかも」

 この奇遇を女房は早速、小平夫人へ手紙で伝えた。しばらくして夫人から「懐しい」という手紙と一葉の写真が送られてきた。先生の開いた草上パーティーで、ロングスカートをはいた若き日のミエさんが、若き小平邦彦、吉田耕作、伊藤清、玉河恒夫など大先生達と一緒に、草上におかれたかごの赤ん坊を覗いているものだ。このどこか間延びした顔の赤ん坊が女房だった。

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source : 文藝春秋 2023年5月号

genre : ニュース 社会