自らの頭で考えないという病

古風堂々 第47回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース 社会

 文明が進み生活が楽になるにつれ、人々は辛い我慢から解放されていく。小学生の頃、まだ吉祥寺には上下水道がなく、毎日数十リットルの井戸水を屋根の貯水タンクに手押しポンプで汲み上げるのは私の仕事だった。重労働だったから以後、腕相撲で負けることは一度もなかった。信州にいた時の友達は、遊んでいる最中に一キロも離れた田の水の調節に行かされたり、農繁期にはイモ掘りやイネ刈りなどを手伝わされたりしていた。私より上の世代はもっと大変だった。信州育ちの父や母は、小学校に通うのに大きな岩の露出した一里の山道を毎日往復しなければならなかった。

 我慢力を失った人々にとって、本を開き一字一字追うことはテレビやネットという受け身の媒体と異なり苦痛である。だから三人に一人の中学生の家には本棚がなく、二人に一人の大学生が月に一冊も本を読まないということになる。私のゼミの学生が新田次郎を知らなかった時はさすがにムッとした。

 書物を読んだり自分の頭で粘り強く考えるのは辛いから、人々は何か解決すべき問題があるとひたすらスマホやパソコンなどネットでの情報収集に邁進する。学校教育でも、自分で深く考えることよりグループ・ディスカッションなど共同作業を強調する。いろいろな情報や意見の中から選択する方が楽だからだ。先日、夜十時頃の電車に乗ったら、数十人の乗客全員がスマホを見ていた。やれやれ情報集めかと思い左隣りにいた四十代男性のスマホを覗いたらゲームをしていた。右隣りの女子高生のスマホを覗いたらチラ見されてから隠された。

 ネットやメディアに氾濫する情報に身をまかすのは危険である。真偽ごたまぜというだけではない。我が国ではバブルが弾けて数年後の一九九〇年代後半より、金融ビッグバン、新会計基準、市場原理、小さな政府、民営化、株主資本主義、大店法、労働者派遣法改正、郵政改革、緊縮財政、消費増税など劇的改革が「グローバル化」の名の下、矢継早に登場した。ほぼすべての新聞やテレビは、これらをバブル後の不況から脱け出すための特効薬のごとく支持した。二〇〇〇年代に入るや小泉竹中政権はほとんど狂乱状態でこれらを実行した。ところが欧米やアジアが力強い経済成長を続ける中で日本経済だけが一向に浮揚せず、中小企業など弱者が追いこまれ、自殺者数は毎年三万人を超え、地方の駅前商店街が一気にシャッター通り化した。何かおかしいとやっと感じた私は多くの書物を読み本格的に調べ始めた。改革はことごとく、一九八〇年代に一人勝ちしていた日本が冷戦後も勝者となることを許すまい、と決意したアメリカが深謀のうえ我が国に強く要求したものだった。息のかかった学者、IMFや格付け機関までを使って日本の世論を操作した。冷戦後のアメリカの変貌に気づかないまま、その情報戦略に、日本のメディア、国民そして私までが乗せられていたのである。

 スマホやパソコンの行き渡った今、我々は当時よりさらに質の悪い情報空間にいる。情報の真偽や是非を判断するには読書から築いた健全な知識、教養、道徳、情緒、そして実体験を通した肌感覚などが必要だが、若い頃から情報空間にどっぷりつかっていてはこうした基盤は得難い。ますます自らの頭で考えないという病に陥る。

 政官財のエリート達も同じ病にかかっている。例えば先進国で我が国だけに見られる二十数年のデフレ不況の真因や打開策について政治家は必死で考えない。次の選挙にしか関心のない仲間と話し合ったり、省庁の権益に囚われ国を想う心に欠けた官僚、大企業の利益代表にすぎない財界などの意見をいつまでたっても拝聴している。激しく進む少子化についても真因についての省察はなく、金を配るなど小手先の対症療法に走る。

 実はデフレ不況と少子化の本質は同一で、「今日より明日は明るい」と人々が思わなくなったことなのだ。世の中が今より暗くなると思ったら子供を作る気にならないから少子化は進む。将来に備え金は使わないで貯えようと思うから、個人は消費を、企業は設備投資を控える。当然、需要は伸びずデフレ不況は進む。正規雇用者の半分の給料で雇える非正規雇用者が、全雇用者の四割近くにもなっている。三十五歳以下の非正規雇用者は五百万人もいて彼等の平均年収は二百万円以下である。これでは結婚もできない。非正規がこれほど増加したのは労働者派遣法改正のためであり、これほど薄給なのは大企業が暗い明日に備え利益を内部留保に回し賃金を上げないこと、そして株主中心主義のためである。これら誤った改革を見直せば「今日より明るい明日」に向かうはずだが、そんな動きは聞こえてこない。過ちを犯した先輩達や勧めてくれたアメリカへの忖度もあるのだろう。自分の頭で必死に考えない限り、忖度を乗り越え見直すだけの胆力も生まれてこない。

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source : 文藝春秋 2023年4月号

genre : ニュース 社会