ケーニヒスベルクの橋

古風堂々 第46回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ 国際 歴史

 私が六歳の時、日米親善ということで米大リーグ3Aのサンフランシスコ・シールズが日本に来た。満州引揚げ後の貧しさで幼稚園に行けず、中央気象台官舎に残る焼け跡で遊び暮らしていた私を、父が後楽園での対巨人戦に連れて行ってくれた。外野席切符二枚が無料で手に入ったのである。私は三番青田や四番川上に大声援を送ったが、巨人は惨敗した。

 この時以来、巨人ファン、とりわけ川上ファンとなった。小学校三年生の頃、川上選手に「大ファンです」というファンレター兼年賀状を出した。待っていたが返事はなかった。がっかりしていたら父に、「当り前じゃないか、お前みたいな小僧の葉書に打撃の神様が一々返事などしていられるか」と笑われた。次にファンレターを書いたのは中学三年の時、数学者の小倉金之助先生へのものだ。御著書の『一数学者の肖像』を読んだ感想、および数学者になるためには中高生時代にどんな勉強をしておくべきか、など質問を書き送ったのだ。この時はていねいな返事が来たのでうれしくて跳び上がった。高一の時には作家の三浦朱門氏、大学二年生の時には倉橋由美子氏にも書いた。どこからも返事は来なかった。たとえ返事をもらえなくとも想いを著者に伝えたい、という私のような情熱と親切心に富んだ好ましい人がファンレターを出すのだろう。

 小倉金之助先生だけが返事を、たかが一介の中学生に下さったのは、本の中にあった「ケーニヒスベルクの橋の問題」が解決できたと記したからかも知れない。東プロイセンの首都ケーニヒスベルクの中心部にある大聖堂は、周囲を川に囲まれ島のようになっている。「この島にかかる七つの橋すべてを、どの橋も二度通ることなく渡ることができるか」という問題だ。十八世紀にスイスの大数学者オイラーが渡れないことを証明し、後に位相幾何学やグラフ理論へと発展したものである。私は二、三日考え続け、できないことの証明、さらには島や橋がいくつあってどんな配置にあろうと、可能か不可能かをすぐに判定する方法を見つけて書いた。先生は返事の中で私を励ましてくれた。数学者になろうと思ったのは、私が小学校五年生の時、信州にある母の故郷の隣り村出身の小平邦彦先生がフィールズ賞を受賞された時であったが、四年後に頂いた小倉先生からの手紙でその決意を固めたのであった。今から数年ほど前に先生の回顧展が東京理科大で催されたが、先生に出した私の手紙が飾られていたのを見て感激した。

 数学と文学にしか興味のなかった中学生の私にとって、この問題の出所、バルト海に面する中世都市ケーニヒスベルクの数奇な運命など知る由もなかった。プロイセン王国の主導で統一されたドイツが第一次大戦で敗れたため、戦後のヴェルサイユ会議で、独立を回復したポーランドにはバルト海に出られるよう、ケーニヒスベルク西方の細長い地域(ポーランド回廊)がドイツから割譲された。これによりケーニヒスベルクはドイツの飛び地となった。これに不服のヒトラーは一九三九年、ドイツ本土からケーニヒスベルクへの輸送を妨げるポーランド回廊にドイツ専用の高速道や鉄道を通すようポーランドに要求した。これが拒否されたためポーランドに侵攻し第二次大戦が始まった。戦後、米英ソによる傍若無人なヤルタ協定により、ケーニヒスベルクは南カラフトや千島列島とともに、戦利品としてソ連に割譲された。本国へ逃げ損なったドイツ住民は殺されたりシベリアに流されたりし、ロシア人が大量移住した。そしてカリーニングラードと革命家の名をつけた町に変えられた。冷戦終了とともにバルト三国はソ連から独立したが、不凍港としてバルティック艦隊の本拠地となっていたカリーニングラードはソ連が手放さなかったから、ここは周囲をポーランドとリトアニアに囲まれたロシアの飛び地となった。

 今この辺りが第三次世界大戦の口火になりかねないと緊張が高まっている。ロシアのウクライナ侵攻に伴い、EUはロシアに対する経済制裁を決定した。EUに属するリトアニアは当然、ロシアからカリーニングラードへ送る物資の領内通過を制限した。ロシアにとって、EUへの睨みをきかす核搭載短距離ミサイルを配備したカリーニングラードと、ロシアの盟友ベラルーシとの間に横たわる、リトアニア・ポーランド間のたった百キロの国境地帯(スバウキ回廊)はどうしても手に入れたい地である。EUにとってもバルト三国有事の際に陸路で軍隊を送るにはこの回廊を通過するしかないから、絶対に手放せない地だ。第二次大戦のキッカケを思い起こすと緊張せざるを得ないのである。

 カントやヒルベルトを輩出したケーニヒスベルク大学は、イマニュエル・カント記念バルト連邦大学と名を変え、哲学も数学もない一地方大学となり果てている。私の青春の一ページでもあるケーニヒスベルクは今や文化の香りなどどこにもない、人類滅亡のキッカケとなりうる大軍事基地、工業都市となり果てた。

 私は大学を出てからファンレターは出していない。今はファンレターをいただく方だ。最近のファンレターは、GHQ将校と結婚し米国に長く住み、郷愁にまみれながら先頃九十歳で亡くなった婦人をはじめ、六十歳以上の好ましい人々からのものが大半だ。こう見えても処女作『若き数学者のアメリカ』の頃は全然違った。私の本質を知ってか手紙に美しい水着写真を忍ばせてきた二十代女性とか、「先生の幸せな家庭を破壊したい」と書いてきた地方の女子高校生など、情熱と親切心に富んだ極端に好ましい人からのものもあったのである。

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source : 文藝春秋 2023年3月号

genre : ライフ 国際 歴史