太郎次郎三郎つどひて蝉時雨
二十年ほど前の夏、和室の軒に南部鉄の風鈴をつるした女房が、「風鈴の下にたらす短冊のために俳句を一つひねって」と私に言った。即興で作ったのがこれである。茶の間から聞こえてくる大学生、高校生、中学生の息子たちの賑やかな談笑が、一斉に鳴き始めた蝉の声のようにむし暑く感じたからであった。
我が家の食卓はいつも騒々しかった。英国に住んでいたのに、「よい食物はないがよいテーブルマナーがある」と言われる英国の、立派なテーブルマナーをまったく学んでこなかったのだ。騒々しい理由は家族が集まれば常にディベート大会だからである。政治や社会など時事問題も話題になるが科学談議が多かった。
三人息子が幼い頃、我が家には発見ノートというものがあった。他人と違う視点を持つことが創造的に生きるために大切と思った私が提案したのである。子供たちが生活の中で何か新しいことに気付くと、まず私に報告する。私が大げさに褒めあげ、ついで発見の斬新さに応じて「大発見」「中発見」「小発見」と皆に聞こえるような大声で査定し、ノートに記録するのである。息子達はこぞって私の所へ走って来て「パパ、発見したよ」と言った。「言ってみろ」「ガソリンスタンドは大てい道路の角にあるよ」「なーるほど、面白い、ショーハッケン」という具合である。
時々大発見もあった。二階の書斎で数学を考えていた私は突然、いたたまれぬほど不快な音で仕事を中断された。「誰だ、うるさーい」と怒鳴りながら駆け下りると、幼稚園に通う三男が「発見したよ」と少し脅えながら言った。「何だ」「お祭りでもらった風船が天井から落ちて床に転がっていたんだけどガラス戸に何度もこすりつけるとまた天井に上って行くよ」「えっ。じゃあ、そこに落ちているもう一つのやつでやってみろ」。三男が遠慮なくガラス戸にこすりつけると風船はひゅるひゅると上って行った。摩擦熱で風船内の気体が膨張し、回りの空気より軽くなったから上って行ったのだ。私は怒りを忘れ大音声で「ダイハッケーン」と宣言し、三男の頭を何度もなでてやった。
長男が中学生になった頃から、冬は故郷の蓼科で家族スキーをするようになった。私が家族に威張れるスポーツは、中高の頃に選手をしていたサッカー、および在米中に鍛えたスキーだけである。あの頃、アパートから一時間で三千メートル級のスキー場に行けたので、毎週ガールフレンドや大学での同僚と滑りに行っていたのだ。車山スキー場での昼食時だった。トンコツラーメン大盛りを食べていた中学生の三男が妙なことを言った。「エベレストの頂上では一年中零下だから雪は溶けないよね。ならば積もった雪の厚さだけ毎年頂上は高くなるはず。そうならないのはなぜだろう」「うーん、それはダイハッケンだな」と私はうなった。疑問は立派な発見だ。三男が「雪が溶けないまま気体に昇華しているのかな」と言うと、すかさず次男がにやにやしながら「バカだね、気温は零下でも、雪の内部は暖かいんだよ、ほらカマクラの中は暖かいでしょ」と言った。皆がどっと笑った。女房が「頂上は猛烈な風だから積もった雪は片端から吹き飛ばされているんじゃない」と意表をついた。議論百出だった。見当もつかないので黙っていたら、長男が「パパ分からないの、それでも理学博士なの」とイヤミを言った。いつも通り結論は出ぬまま、五人は午後のゲレンデに飛び出て行った。後日、東大の物理学教授に尋ねたら「確かに不思議ですなあ」と言ったきりだった。
発見は息子ばかりではない。私のダイハッケンはラーメンに浮かぶ刻みネギに関するものだ。手前のネギは丼に口をあててすすればよいが、向う岸近くのネギがやっかいだ。一つ一つを箸でつかまえるのは面倒だから丼を半回転させこちらに持ってこようとするが来てくれない。素直な麺はこちらに来るがネギは食べられたくないのか、速く回しても遅く回しても元の位置にいるままである。夕食時にこの話をしたら長男が、「ラーメンには油が多いから汁が丼の表面を滑っているんだよ」と言った。三男が黙って台所に行ってコップ一杯の水に氷一つを入れて戻って来た。コップを回転させたが氷は向う岸にいるままだった。油説はこの瞬間に否定されたが論争の末これも真相が分からなかった。
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