アメリカの大学にいた一九七〇年代、ユダヤ系学生の成績が際立ってよかった。彼らに、「ユダヤ系は他民族に比べ優れていると思うかい」と聞いてみた。そのたびに強く否定された。「長い迫害の歴史の中で、土地の所有さえ禁じられ、財産を没収などされてきたから、決して奪われることのない知識を獲得しようとしました。だから親は子供にボロを着せても一冊でも多くの本を与えようとします。ユダヤ系が優れて見えるのは、知能の差ではなく教育のためです」。帰国後数年して東京で会ったユダヤ系のコロンビア大学教授夫妻にもそんなことを話し、「アホなユダヤ系に会ってみたい」と付け加えた。文化人類学専攻の教授は、「あー、それならうちの庭師をはじめいくらでもいるよ。ニューヨークへ来てくれ、百人でも千人でも連れて来てやる」と言って夫妻で大笑いした。この時から家族ぐるみの付き合いとなった。
ただ額面通りに受け取る訳にはいかない。歴史上、「ユダヤ人は」で始まるありとあらゆるデッチアゲにより差別、迫害を受け続けて来た彼等は、「ユダヤ人は」に神経を尖らせている。ただ内心では自分達に強い誇りをもっているはずである。世界人口の〇・二%に過ぎない彼等が、ノーベル賞の約二〇%、フィールズ賞の約三〇%をとっている。そもそも長い流浪の歴史を通じ、自分達への強烈な誇りがあったからこそ、楔形文字や製鉄技術を用いて一大文明を築きながら消滅したヒッタイトなどと異なり、散り散りになってもユダヤ教やヘブライ語を守り通すことができたのではないか。
四十年余り前に亡くなった岡潔先生は、多変数解析関数論で「世界の三大難問」と当時いわれたものを、二十年ほどかけて全部一人で解いてしまった天才である。先生はこんな趣旨のことを語っている。「二十代末にフランスに留学した際、西洋文化など日本の深い文化に比べれば大したことはないと気付き、その気持で以後数学に取り組んだ。ユダヤ系のアインシュタインも同じ気持でいたはずだ」。
十数年前のフランクフルトを思い出す。地下鉄駅で地図を開いていたら、「お手伝いしましょうか」と学生が話しかけてきた。私が言った。「ここは前大戦で爆撃され尽くし古いもの好きの私としてはがっかりだ。ドイツと日本で市民が猛爆されたのはハーグ条約違反だ」。青年は困ったように眉を曇らせ「でも僕達は本当に悪いことをしてしまったのだから、どんなことをされても仕方ない」と言ってうなだれた。三年前、スイスアルプスで会った中年のドイツ人男性グループも同じだった。山小屋の前でビールを飲み歌い騒いでいた彼等に「ドイツの歌を知っていますよ」と言うと、「どんな」と言うので得意の美声を披露した。『軍人であることは何と素晴らしい』という戦前の軍歌だ。あっという間に彼等は凍りついてしまった。いたずらが過ぎたと気付いた私が「いや、中学生の頃に見た『08/15』というドイツの戦争風刺映画の中で歌われたものを意味も分らぬまま丸暗記しちゃっただけさ」と言ったら、やっと笑顔を取り戻してくれた。ドイツ人は今だにうなだれているようだ。前大戦に至る約一世紀間、ドイツの学術文化は絢爛豪華で世界の学術を牽引していた。ユダヤ人の活躍もあったが、彼等を除いても超一流であった。それが戦後七十年余りたつのに昔日の面影はない。祖国への誇りと自信なくしては独創さえ生まれないのだ。
アイルランドは古来ゲール語による豊富な説話文学を有していた。九世紀のヴァイキングや十七世紀のクロムウェルによる侵略、そしてその後のイングランドによる無慈悲な支配など混乱を通し、文学の伝統は忘れられた。十九世紀中頃まで、名の知られた作家は『ガリバー旅行記』のジョナサン・スウィフトなど数えるほどしかいない。十九世紀後半、詩人のイェーツらが自分達の文化遺産を再評価し民族精神を覚醒しようと、アイルランド文芸復興運動を始めた。これ以後のアイルランド出身作家の活躍は目覚ましい。イェーツをはじめオスカー・ワイルド、バーナード・ショー、ジェイムズ・ジョイス、サミュエル・ベケット……とキラ星のように並ぶ。
長年ヨーロッパの後進国だったドイツが十九世紀中葉から圧倒的偉才を輩出したのは一八一〇年、「ギリシア古典による人格の陶冶」を高く掲げたベルリン大学創設が起点だった。自分達の原点にギリシア精神を置き、それに確固たる誇りをもったことが発火点だった。
振り返って日本人はどうか。ギャラップ社が二〇一五年に行なった六十四ヵ国の世論調査において、「あなたの国が戦争に巻き込まれたら進んで戦いますか」という質問に対し、「戦う」と答えた人が日本は一一%と最下位だった。中国は七一%と高くドイツは一八%でビリから三番目だった。一方、米誌が二〇二一年に発表した、生活の質や文化的影響力などに関する「世界最高の国ランキング」では日本が二位、ドイツが三位だった。二つの調査を見ると何らかの力が働いた結果としか思えない。米英仏中露など前大戦の戦勝国は、日独の力を永遠に削ぐには祖国への誇りを喪失させることと考えた。そしてスターリンや中国共産党による数千万とも言われる殺戮や、アメリカによる二発の原爆投下などには口を拭ったまま、大戦中の日独の残虐に繰り返し脚光をあて糾弾する、という情報戦略を徹底してきた。十九世紀の英国の作家スマイルズの言葉を思い出す。「国家とか国民は、自分達が輝かしい民族に属するという感情により力強く支えられるものである」。
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