捨てるもんか

古風堂々 第43回

藤原 正彦 作家・数学者
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 幼い頃から私は、毎夏の一ヵ月を信州の祖父母の下で過ごした。お盆になると村の中央に立つ火の見櫓から、三橋美智也の「リンゴ村から」や「哀愁列車」、春日八郎の「赤いランプの終列車」や「別れの一本杉」が一日中流れてきた。どれも一世を風靡したヒット曲で、どれも別れの歌である。ところがこれらを聞いていた小中学生の頃の私が、別れの辛さに思いをめぐらせたことはなかった。

 八月末が来て帰り支度を整えた私が、農家特有の大きな軒の下に立ち別れを告げると、野良着のフンゴミ(踏込袴)をはいた祖母は、百年の星霜を経て木目の浮き上がった黒い廊下にペタンと坐ったまま、「へえ(もう)、帰(けえ)るだか」と言って涙を流した。小学生の頃、これが不思議で「おばあちゃん、どうして泣くの」と尋ねたら、「れえねん(来年)まで彦ちゃに会えねえでさむしいだ」と言った。よく分からなかった。生意気盛りの高校生の頃だったか、掌(たなごころ)でしきりに涙を拭う祖母を、「また年中行事だね」と茶化したら、「もう会えねえかも知れねえと思うとな」と言ってまた泣いた。尋常小学校の頃に旅順陥落の祝賀提灯行列に加わった祖母だった。祖母の涙がこちらに伝わるようになったのは大学を出てからのことと思う。縁側で涙にくれる祖母を見つめているうちに、「これが見納めになるかもしれない」という考えが心をよぎり、急に目頭が熱くなったりした。

 年齢を重ねないと別れの辛さは分からないが、小中学校の卒業式で昔も今も涙を流す者が多いのはなぜなのだろうか。来賓の祝辞などは聞き流しているが、式次第も進み「仰げば尊し」の段になると、まず女生徒の嗚咽があちこちに起こり、それが波紋となって伝播する。私などは決まって二番の(身をー立てー名をーあげー)の所で、感極まり声が出なくなった。ただ、何が悲しかったのかがはっきりしない。先生や友達なら電話一本で会えるからだ。

 この謎が解けたのはずっと後、テレビのある番組を見ている時だった。過疎により廃校が決まった山奥の分校の卒業式を映していた。粗末な木造校舎での最後の卒業式は、一人の先生と男女一人ずつの卒業生、計三名の式だった。先生の最後の言葉をうつむき加減に怒ったような顔で聞いていた赤いほっぺの少年が、「仰げば尊し」が始まるとまもなく、耐え切れぬようにしゃくり上げた。先生も泣いていた。私は言い知れぬ感動を覚えると同時に、辛いのは先生や友との別れではなく、この学校で先生や友と共有した時間の終焉なのだと思った。別れはそれまで一緒に過ごしてきた時間の死であり、自分の一部の死でもある。井伏鱒二の「サヨナラだけが人生だ」という言葉を思い起こした。「時の流れはすべて有限時間後に別れに収束する」ということで、まさに日本人特有の「もののあわれ」のことだ。我が国に別れの歌が極端に多いのもうなずける。私はテレビ画面を見ながら、こんな山奥の年端の行かない子供たちでさえ、「別れ」の本質をつかんでいると思った。

 アメリカではこうはならない。女友達に誘われて行った彼女の弟の高校の卒業式は、バンドの奏でるマーチにのって入場する卒業生たちに掛声や嬌声が飛び交う、涙とは無縁のものだった。私が教えたコロラド大の卒業式は、フットボール場で行なわれたが、男子卒業生の一人がいきなり立上がると黒いガウンを勢いよく脱ぎ捨てた。ガウンの下は全裸だった。そのまま学長のいる壇上にかけ上がるとマイクをとり、「エディー、グッバイ」とだけ言って元の席に戻ろうとしたが、間違って看護学科の席に迷いこみ、群がる女子学生たちの大喝采を浴びた。学長は動ぜず、「最近の若者の体格向上はめざましい」と述べ拍手を浴びた。アメリカ人は誰もが、過去の一時点で故郷とその伝統や慣習を捨てた人々である。振り返るべき過去との絆を断たれた人々の視線は、必然的に未来へ向かう。未来志向の彼等にとって、別れは次の段階への祝うべき出発点にすぎない。だから卒業式をコメンスメント(始まり)ともいう。

 母、藤原ていが子供達への遺書として綴った満州引揚げ記「流れる星は生きている」は昭和二十四年に出版され、同年映画化された。この映画には主題歌が二つあった。池真理子の歌う「流れる星は生きている」と、伊藤久男の歌う「北極星の下に居て」である。作曲はともに古関裕而で、作詞は前者が母、後者が父だ。私は幼い頃から父や母がこれらを口ずさむのを聞いていたし、レコードでも時折聴いたが、単に「ねっとりした歌だなあ」と思っただけだった。これらを涙なしに聴けなくなったのは、何と父と母を失ってからだった。「流れる星は生きている」の三番は(私の胸に生きている あなたの行った北の空 ごらんなさいねこんばんも 泣いて送った国境に 流れる星は生きている)である。父は終戦後二ヵ月してソ連により家族と引き離されシベリアへ連行された。この三番は、父の乗る無蓋列車を母子四人で丘の上から「お父さーん」と大声で泣き叫びながら見送った時の情景である。

 父が六十七歳の寒い朝、突然に逝ってしまってからずっと、母は「あのシベリアから不意に戻って来たお父さんだから、きっとまた不意に戻って来る」と言い、玄関のたたきには大事にみがかれた父の靴を置いていた。洋服ダンスには父の生前と同様、父の背広が吊るしてあった。父の逝った三十余年後に母が亡くなり洋服ダンスを片づけていると、父の背広のポケットに紙切れが入っていた。「お父さんの背広。捨てるもんか」と書かれていた。父との別離を絶対に認めない、という気迫のこもった太字であった。

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source : 文藝春秋 2022年12月号

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