英国と日本の絆

古風堂々 第42回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース 国際

 エリザベス女王がスコットランドのバルモラル城で逝去された。大東亜戦争で日本軍のためアジアにあった全ての植民地を失った英国は、戦後三十年程英国病と呼ばれる長い不況に見舞われた。造船業をはじめ得意の製造業も片端から主導権を日本に奪われ、輸出競争力のあるものはビートルズくらいだった。当然ながら対日感情は最悪だった。一九七一年に昭和天皇が訪英された時は、反日の嵐に遭い、天皇の植樹された杉が何者かに引き抜かれ、エディンバラ公の叔父のマウントバッテン卿が、天皇との面会を拒否して大衆の喝采を浴びたりした。一九八八年秋に昭和天皇が重篤に陥った頃でもよくなかった。ロンドンの新聞スタンドで、「ヒロヒトよ、地獄がお前を待っている」という大見出しを見つけ憤慨したのを覚えている。

 こんな世情を横目に女王は、早くも一九七一年の昭和天皇訪英の際、ロンドンのヴィクトリア駅まで馬車で出迎え、同乗してバッキンガム宮殿に向かわれた。世界一古い皇室と三番目に古い王室との親密は、立憲君主制維持に不可欠と見抜いていたのだろう。その際に天皇は、十年前の還暦時に語られたように、「生涯で一番楽しかったのは二十歳の時の訪英だった。ジョージ五世がバッキンガム宮殿に三日も泊めてくれ、立憲君主のあり方を教えて下さった。陛下を第二の父と思っている」と女王に話されたであろう。天皇の高潔な人柄と聡明に触れた女王はその四年後に来日した。帰国の際、訪日を取り仕切った儀典長に「自分が教えを受けられるのはこの方しかいない、と信じて地球を半周してきたのです。十分に報いられました……感謝でいっぱいです」と胸の内を明かした。「この方しかいない」という強い表現は女王が、自分の生まれた年に即位し、尊敬する祖父を第二の父と思ってくれる天皇に対し、第二の父のような気持を抱かれていたのではないだろうか。

 平成の天皇皇后はさらに親しい関係を築かれた。二〇一二年の女王即位六十周年では、女王主催の昼食会で各国王族の中から天皇が選ばれ、女王の隣の席が用意された。私は美智子さまとお話しする機会があった時、「ロンドンではどのホテルにお泊りですか」と不躾な質問をしたことがある。「先頃伺った時は女王様が『ウィンザー城にお泊りになりたいだけお泊り下さい』と仰るので、私達お言葉に甘えて遠慮なく一週間も泊ってしまいましたの」と微笑まれたのを思い出す。今上天皇も英国留学中、女王にバルモラル城に招かれる等、家族の一員のように遇された。女王と三代天皇の間柄が親密になるにつれ、険悪だった英国民の国民感情も和らいだ。王室皇室外交の画期的成果だった。

 二〇一四年の九月にスコットランド独立の住民投票が行なわれた。歴史的瞬間を見ようと私達は、投票の一週間前にグラスゴーに入り、そこで研究中の次男に会ってからレンタカーでアバディーンへ向かった。田舎道を走ると、家々には「YES」とか「NO」と大きく書かれた看板があった。女房が、「投票の後、違う意見の隣同士はどうするのかしら」と心配した。アバディーンからディー川沿いに西へ走る古城街道がお目当てだ。女房は古いものなら何でも好きなのだ。二十三歳で一回り上の私と婚約したのもそのためだ。一泊した朝、ホテルマンに「待望のバルモラル城を見に行く」と言ったら、「ダメ」と言う。女王は毎年ひと夏をここで過ごし九月初めにはロンドンに帰るのだが、今年はまだ滞在中という。女王のいない時だけ観光客に開放されるのだ。お目当ての城を見られない恨みか、「スコットランド懐柔のためキャメロン首相が女王様に滞在延長を懇願したに違いないわ」とむくれていた。

 チャールズの不倫や離婚や再婚などで、「次の国王はチャールズをとばせ」との声がこの二十数年常にあった。理解不能だがダイアナ妃人気は今も世界で衰えないのだ。新国王の好感度は上昇中だが、偉大だった女王への国民的敬愛には到底及ばない。求心力低下による茨の道が待っている。まずは一年後に予定されるスコットランド独立の住民投票だ。ただ、前回はEU加盟を望んだ人々が多かったため独立派が健闘したが、今回はウクライナ戦争でEU経済が悪化しているからそうなるまい。女王がバルモラル城で逝去し、エディンバラで通夜が営まれたことも、一体感を生んだだろう。

 最大の懸念は王室離れである。六月の調査では、六十二%が存続を支持しているが、若年層に限れば三人に一人にすぎない。しかもトラス新首相が頼りない。革新的な自由民主党員だったオックスフォード時代の演説をCNNで見た。「君主となれるのは唯一つの家族だけだ。すべての人々に機会があるべきと信ずる……私の会う人々は皆こう言う、『君主制を撤廃せよ、もう沢山だ』」。後にこの主張を撤回したが、伝統を深く理解しているか不安だ。この演説の二年後に保守党員に鞍替えした。また反サッチャーからサッチャー信奉に、EU離脱反対から強硬離脱派に豹変した。短命な内閣となるだろう。

 英国王室の安泰は我が国にとって強く望まれる。一九〇二年から二十年近く続いた日英同盟の時代、日本の国際的地位は盤石だった。このおかげで日露戦争と第一次大戦を乗り切り、同盟が終わるや欧米各国から袋叩きにあうことになった。ここ二世紀近く、英国は最強の諜報組織を駆使し最も巧妙、時には狡猾な戦略を展開してきた。英国と強固な絆を保つことは、我が国の外交や国防ばかりか、英連邦を考えると食糧や資源エネルギーの安全保障上も重要である。英王室と皇室との親交はそんな絆の核となる。

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source : 文藝春秋 2022年11月号

genre : ニュース 国際