八ヶ岳の緩やかな西斜面に、寄り添うように100軒ほどが並ぶ部落がある。村を貫く一本道の中央に火の見櫓が立ち、その直下に母の生家がある。5歳になった頃、母が引揚げの疲労から床につく日が多くなり、3人兄妹の中で最もうるさくて手のかかる私が選ばれ、ここ祖父母の所に半年余り預けられた。地元の子供たちと毎日朝から晩まで遊び回った。東京に戻ってもしばらく諏訪地方で最も強い訛りの方言を話していたら、父は愉快そうに苦笑し、母は困り果てたように苦笑した。日本ではどこでもそうだが、城下町が1番エライ。城下町から離れるほど田舎扱いされる。父の生家は高島藩の城のある上諏訪駅から山へ4キロ入った所、母の生家は隣りの茅野駅から山へ12キロ入った所だから、父は母を「山裏のアンネサ(お姉ちゃん)」と時折からかった。目くそ鼻くそと思うが、なぜか母はそれにひどく腹を立て箸を投げつけたこともあった。
小学校に入ってからも大学院に至るまで、標高1150メートルのこの地で毎夏1ヵ月を祖父母と過ごしたから、この地域の言葉を完全にマスターしている。ここ40年ほどは母の生家から3キロほどの所に建てた山荘で、やはり夏の1ヵ月を家族と過ごしている。地元の人とはいつも方言で話す。50歳以下の人は標準語しか話さないが、明治生まれの祖父母に仕込まれた私の言葉を普通に分かってくれる。20代の女性に「わあ、死んだじいちゃんと同じ言葉!」と言われた時は少しへこんだ。ここでは誰もが、私を東京のシティーボーイとも、アメリカでならしたプレーボーイとも、英国で磨きをかけたジェントルマンとも思わず、純然たる地元のオッサンと勘違いする。少しうれしくて少し悲しい。
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source : 文藝春秋 2022年10月号
genre : ライフ