伝統というもの

古風堂々 第49回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース 社会 皇室

 古くからの慣習や伝統、広くはその国の文明とも言うべきものは、人が尊ばなくなると次第に衰微し、やがて消えてしまう。『文明の衝突』の中でハンティントン教授は、世界の高度に発達した文明を七つに分類した。中華文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、東方正教会文明、西欧文明、ラテンアメリカ文明、そして日本文明の七つである。分類を試みる学者は誰もが、小さな島国日本だけのものである日本文明を中華文明に組み入れようとし、結局は皆日本文明を独立したものとする。

 日本文明とはいかなるものであったのか。一六九〇年に来日したドイツ人医師ケンペルは、著書『日本誌』の中で、「国民は道徳、教養、技芸、立居振舞いなどの点でどの国民よりすぐれ、世界でも稀な長さにわたり平和と幸福を享受している」と述べた。オランダ、スウェーデン、ロシア、ぺルシア、インド、インドネシアなど外国に十数年間暮らした彼によるこの著書は、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューなど知識人に広く読まれ、日本観形成の礎となった。また幕末から維新にかけて来日した欧米人が一様に瞠目したのは、誠実、忍耐、謙譲、正義、勇気、礼節、孝心、名誉と恥、卑怯を憎む心、惻隠、といった日本人の情緒と形であった。また彼等は異口同音に「人々は貧しい。しかしみな幸せそうだ」と述べた。貧しさイコール不幸と考える彼等にとってありえない光景だったのだ。日米修好条約締結のため訪日した米外交官・ハリスは、欧米文明がこの、ある意味で完成された社会を破壊してしまうのではと懸念し、「(日本の)新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるのだろうか」と日記に記した。

 ハリスが懸念した通りに、明治の文明開化や大正昭和にかけての西洋崇拝により、日本文明という誇るべき伝統は古い日本の遺物として軽視されていった。その結果、日本文明にとって、卑怯と惻隠に触れるという点で最も忌むべき弱い者いじめにすぎない帝国主義に、我が国はその醜悪を欧米に諭すこともないままのめりこんで行った。戦後はGHQに「日本」をことごとく否定された。アメリカはヨーロッパの古い慣習や伝統に訣別して作った移民国家である。伝統と呼べるものはない。むしろ常に古びたものを壊し新しい地平を拓こうと改革を続ける国である。そこで長く日本精神を軸に動いていた我が国のあり方を、アメリカは後進性の表れと見なし、代りにアメリカ型民主主義を押しつけた。かくして世論が最高権力となるポピュリズムに陥ることとなった。

 世論は民主主義の基盤だが、問題はこれが伝統と相容れないということだ。世論とは現在の国民の意志であるのに対し、伝統とははるか昔から人々が連綿と抱き続けてきた意志であり想いであり祈りだからである。小泉内閣下の有識者会議は女系天皇容認の答申を提出した。伝統中の伝統である天皇制の根幹は万世一系、すなわち父親→父親→父親→とたどると必ず神武天皇にたどり着く者(男系)のみを擁立してきたということである。幕末維新期に来日した英国の外交官アーネスト・サトウは天皇を日本の「確固不動の核」と評したが、その正統性は二千年にわたる万世一系にあった。答申はこれをくつがえす革命的なものだった。驚いた私は答申を熟読した。皇統を論ずる上での原点は日本国憲法と世論だった。この二つを原点とするなら、議論などしなくとも男女平等により長子相続となる。そこには飛鳥、奈良、平安の昔から、人々が大切に守り通してきたものに対しての、畏敬と敬意が微塵もなかった。皇統のあり方は憲法と世論で決めるべきと考える識者、メディア、国民は今も多い。

 フランスに研究留学中の私の教え子から十年ほど前にもらった手紙を思い出す。「フランス人学者に『日本人にとって天皇はどのような存在か』と尋ねられました。『天皇皇后両陛下は日夜国民の幸せのために祈って下さっている。ご高齢にもかかわらず東日本大震災以降、被災地を頻繁にご訪問し被災者を励まして下さっている。両陛下は我々日本人の精神的支えである』と答えました。すると『フランスにはそのような存在はない』と半ば羨ましそうに言われました。また、『男女平等の世の中でなぜ男系を続けるのか』と聞くので、『およそ二千年続いてきた伝統だからです。理屈は何もないのです』と胸を張って答えたら、やり取りを聞いていたオーストラリアの女性学者が、『それは素晴らしい』と強く同意してくれました」。

 私がケンブリッジ大学にいた頃、大学の公式ディナーで白鳥が出された。前に坐っていた高名な学者が私に尋ねた。「マサヒコ、この白鳥は誰のものか知っているか」「獲った人のものでしょ」「違う、英国中の白鳥はすべて王室のものだ。食べるには女王の許可がいる」。呆れ顔の私に彼は「マグナカルタ以前からそう決まっている」と誇らし気に言って微笑んだ。

 十八世紀英国の思想家バークは『フランス革命の省察』の中でこう述べた。「制度、慣習、道徳、家族などには祖先の叡知が巨大な山のごとく堆積しており、人間の知力は遠くそれに及ばない。理性への過信は危うい」。伝統を安易に改革することの危険性を説いたのだ。この八十年後に福沢諭吉は『学問のすすめ』の中で、慣習や伝統についてほとんど同じ趣旨を説き、改革するには「千思万慮歳月を積み、漸くその性質を明らかにして取捨を判断せざるべからず」と述べた。一国の伝統は理屈を超え、憲法や世論など現代の価値観をも超えたものだからである。

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source : 文藝春秋 2023年6月号

genre : ニュース 社会 皇室