舌の良し悪し

古風堂々 第51回

藤原 正彦 作家・数学者
ニュース 社会 国際 グルメ

「イギリスはまずい」とよく言われる。「イギリス人の舌はみな隣りのフランスに持って行かれてしまった」とか、「イギリスのテーブルにはよい食物はない、よいテーブルマナーがある」などとも皮肉られる。最近は少し美味しくなったという人もいるが、三十年余り前に私達が暮らしていた頃はその通りだった。レストランに行っても、インド料理と中華料理以外はすべて失望させられた。友人宅に招かれても美味しいものはまず期待できなかった。同僚の数学者の家に夕食に招かれた時は、冷凍のグラタンをオーブンで温め、缶詰のビーンズを添えてくれただけだった。才色兼備のドロシーの家でのティーでは、美味しいケーキでも焼いてくれるのかと期待したが、トーストにジャムをつけて食べただけで、お茶はリプトンのティーバッグだった。

 逆に我が家に招いた友人達は皆、女房の料理を絶賛した。日本人はごく普通に家庭で日本料理、中華料理、西洋料理などを作るが、向うでは自国の料理しか作らないから驚異なのだ。ただ英国人にほめられても有頂天になれない。彼等は玉ネギや人参をみじん切りする女房にひどく感嘆したし、我が山荘を訪れたケンブリッジ大学の学生達は、塩ゆでした枝豆に、「こんなに美味しいものを食べたことがない」と感激したからである。

「イギリス人は五歳までにママが料理してくれたものしか口にしない」とも言われる。新しい料理には興味を持たないという意味である。だから家庭料理は単調だ。我が家の長男は食べ盛りの中学生の頃、英国の教授宅に二週間ほどホームステイしたが、「夕食はスープにパンだけの日が多く、皆いたって少食だった」と音を上げていた。恐らく中世の頃からさして変わっていないのだろう。

 イギリス人家族を寿司屋に連れて行ったことがあったが、小学生の娘さんは生の魚に怖気づき、かっぱ巻きとゆでたエビ以外に手をつけなかった。ケンブリッジでの元同僚の天才的数学者が我が家に泊まった時、イギリス人は保守的で新しい食物に手を出さないと言ったら、「僕はマサヒコが知る通り先入観にとらわれるような人間ではない、何でも食べられるよ」と挑戦するように言った。五歩歩くたびに一度スキップする男だから、確かに先入観にとらわれない人物だ。豪語に応えて翌日の朝食は御飯、味噌汁および納豆とした。納豆を指さし「これは何か」と聞くので、「腐った大豆だ」と答えたら、彼は無言のまま緊張した面持で納豆に箸を当てた。糸を引いたので小さく「オッ」と言った。ここが頑張り所と勇気をふるい起こした彼は、恐る恐る箸で一粒をつまむと、鼻先へ持っていって臭いをかいだ。「オー」といううめき声とともに箸をおいた。

 実は私もイギリス人に似て、五歳までに母や祖母の作ってくれた料理が一番好きだ。私の家族は満州から引揚げ帰国した後、住む家もなく信州の草深い村にある母の生家に身を寄せた。百姓家にある食物は、自分の畑でとれる野菜だけだった。そのせいか今も、味噌汁の具はジャガイモ、キュウリは味噌をつけてかじるのが一番だ。甘味では何と言っても祖母がお盆などに作ってくれたおはぎである。いつもは野良仕事で爪の間に土がはさまっている祖母の手が、おはぎを作ってくれた後はきれいになっていたのを想い出す。

 イギリスの家庭料理と同様、日本の農家の家庭料理も単調だ。祖母はもちろん母も料理のレパートリーは極端に少なかった。そのせいか私の味覚もイギリス人並みとなった。十年ほど前、年長で高名な評論家N氏御夫妻と私達は麻布のイタリアンへ行った。前菜で出てきた赤いさいの目切りが美味しかったので、「このトマト、美味しいですね」と言ったら、誰も反応しなかった。三秒ほどおいて女房がテーブルの下で私の足を蹴った。振り向くと私の耳許で「マグロ」と小声で囁いた。

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source : 文藝春秋 2023年8月号

genre : ニュース 社会 国際 グルメ