「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」(平成16年)
1999年8月、国旗国歌法が施行され、君が代が法的に国歌と定められた。政府見解を待つまでもなく、歴史的に見て、君が代の「君」は天皇を意味する。つまり、君が代は天皇讃歌である。
政府の式典などで君が代が斉唱されるとき、天皇が歌わないのも、自画自賛になってしまうからにほかならない。
さて、国旗国歌法の制定後、全国の公立小中高校の入学式・卒業式で、君が代斉唱を完全実施するように指導が強化されていった。
そんな最中の2004年10月、讃えられている本人の意向がたまたま示された。秋の園遊会で、東京都教育委員も務める棋士の米長邦雄が、天皇に「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」などと話しかけた。
とっさのことだったが、天皇はこう応じた。
「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」(山本雅人『天皇陛下の本心』)
このやり取りは、テレビ局のマイクで拾われていた。あとで記者団は、一言一句間違いないように、みなで何度も再生して「お言葉」を確認したという。
たしかに、天皇が「私への讃歌をどんどん歌わせて下さい」というわけがない。ただ、いきなりだったにもかかわらず、天皇の返しは政治性もほとんどなく、なかなか絶妙だった。
「これには出なければならない」(平成27年)
天皇は、戦没者への思いも切実だった。終戦から節目の年にあたるや、皇后とともに、必ず慰霊の旅におもむいた。1995年の東京(東京都慰霊堂)、広島、長崎、沖縄訪問、2005年のサイパン島訪問、そして2015年のパラオ・ペリリュー島訪問がそれである。
天皇は、このような慰霊の旅に先立って、必ず専門家や元軍人などから説明を受けた。2015年のペリリュー島訪問の前もその例に漏れず、同島で守備兵などを務めた元軍人ふたりを御所に招いた。
その当日、天皇はあいにく風邪に罹り熱があったが、
「これには出なければならない」(川島裕『随行記』)
といって断行し、元軍人にねぎらいの言葉をかけた。慰霊の旅にかける、天皇の並々ならぬ熱量が伝わってくる。
天皇と戦争といえば、同じ2015年8月の全国戦没者追悼式では、天皇が「お言葉」に前年までになかった「さきの大戦に対する深い反省」という文言を付け加えて、話題になった。
これは、2012年以降同式典で反省の言葉を避けている、安倍首相への間接的な批判との見方もある。真相はわからないが、やがて新資料の発見などで裏付けられるかもしれない。