日本における勲章の始まりは「万国博覧会」
同書は「疑獄事件としてみると、この事件は極めて簡単な筋書きで構成されているといってよい」と言う。確かに、勲章が欲しくて金を提供する贈賄側、金が欲しくて勲章をエサにする収賄側という単純な図式。「要するに、売勲は叙勲を名誉と考える心理につけ込んだ権限の利用で成立する贈収賄」と同書は規定する。実際に、登場する人物は鉄道や映画などの会社の社長から貴族院議員に至るまで、中にはそれまで要求されても金を出し渋っていた人も、勲章の話が出ると態度が一変する。実に勲章の力は偉大だった。
栗原俊雄「勲章」によれば、日本における勲章は1867年にパリで開かれた万国博覧会で、幕府とは別に出展した薩摩藩が、現地で作らせた勲章をフランス政府高官に進呈したのが始まりとされる。これに危機感を抱いた幕府も勲章創設を決めたが、幕府自体が瓦解して間に合わなかった。明治政府では参議の江藤新平が必要性を説き、外務省も熱望して国会に要請した。「勲章は外交上、有力な道具である。相手国から勲章をもらいながら返礼ができないのは、外交の最前線にある者としてはつらい」と同書は外務省側の立場を説明する。
三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎でさえ「勲4等旭日小綬章」
そして1875年、勲章を制度化する明治天皇の詔勅が出される。「近代的な中央集権国家へと変貌する明治政府にとって、最も評価すべきは『国家への功績』であった。具体的には、日常の仕事が国家への奉仕である官吏や軍人が勲章制度の主役となった」「(1945年の)敗戦までの栄典授与のうち80%弱が軍人」「残りの2割強の大部分は官吏らの定期叙勲であり、民間人は極めて少なかった」(同書)。戦前、最も高い勲章を与えられた三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎でさえ勲4等旭日小綬章だったという。そう考えると、本編に出てくる叙勲は(時代の変化もあるだろうが)相対的に高く、“ダンピング”に近い気さえする。それでも、勲章授与を求める民間人の熱の高さが想像できる。
「日本政治裁判史録 昭和・前」は、公判で明らかになった事件のポイントを次のように説明している。
(1) 負債の返済請求に悩んだ天岡直嘉・前賞勲局総裁が敏腕な鴫原亮暢を「私設秘書」とした
(2) 前年の昭和天皇即位の大礼で叙勲が大量に行われた
(3) 天岡が権限を利用して直接、間接の知り合いで叙勲されようとする人の決定に便宜を図った
(4) 民間人は、より高い叙勲を強く望む心理から、天岡らの便宜提供を有利と考え、相当の謝礼をした
(5) 天岡らはそうした民間人の心理につけ入って、謝礼を強要し、負債返済に充てようと図った。
汚職には人間の強い欲望が表れるということか。しかし、実態は少々違っていたようだ。