解説:疑獄の季節、汚職には人間の強い欲望が表れる
勲章と聞いて、現代の人はどんなことを思うだろう。「功成り名遂げたお年寄りが、人生の終盤にありがたく受け取る名誉の証」だろうか。しかし、その位置付けはかつてかなり違っていた。
「戦前の国民の大部分は、国家に対し勲功をたてて、その功績をたたえられた証であるところの勲章に対する尊崇は絶対的なものでもあった。したがって、これを授与されるものは、国民の最大の栄誉であり、一家一族最高の誇りとして、長く子孫に伝えるべきものと考えられていたのである」と「警視庁史 第3 昭和前編」は書く。この事件は、そうした時代の国民の意識を背景に考えなければ理解できないかもしれない。
政権交代で続々摘発された疑獄事件に呆れる市民
東京市会疑獄の回でも触れたが、大正から昭和に変わる時期は汚職が連続して起きた。「日本政治裁判史録 昭和・前」は「明治初期以来、さまざまな疑獄事件が最も集中的に表面化したのは大正末から昭和初期にかけての十年間である」と記述。「それというのも、政党政治の対立が激しいため、疑わしい事実が真偽とりまぜて反対勢力から提供されたからである。その結果、世論は表面化した疑獄や汚職に激怒し、政党政治のみにくさを思い知らされたのである」と指摘している。理由はそれだけではないはずだ。関東大震災後の都市と地方の流動化、景気の動向、軍部の台頭など支配層の変動、共産主義やナショナリズムなど国民の意識の変化……。やはり、時代の変わり目だったのだろう。
この事件は「売勲事件」とも「賞勲局疑獄」とも呼ばれるが、7月に政友会の田中義一内閣が張作霖爆殺事件の処理などから倒れた後、浜口雄幸・民政党内閣が発足、その中で、朝鮮総督府疑獄、北海道鉄道・東大阪電気鉄道の疑獄に続くスキャンダルだった。全て、田中政友会内閣時代の疑獄は浜口民政党内閣になって摘発されたもの。
北海道・東大阪電気の両鉄道疑獄はその後、伊勢電鉄、奈良電鉄、博多湾鉄道を合わせた「5私鉄疑獄」に発展。売勲と密接な関連をもって捜査が展開された。まさに「疑獄花盛りの観」(「日本政治裁判史録 昭和前」)。「疑獄の季節」といってよかった。「6大疑獄事件」起訴を報道した1929年11月27日付朝日朝刊は、「疑獄発表と街頭の聲」の見出しで、「どうでもいいや」「修身の教材にする」など、「怒る張合ひもなく 世間は冷たく笑ふ」(見出し)庶民の反応を伝えている。