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 志ん生は満州に来て以来、やれ酒だ、やれ舞台には出ないと満芸の随行員の手をさんざん焼かせていた。森繁もまたそんな彼に振り回されることになる。志ん生は、舞台には出たものの、こんな客じゃ落語なんかできないと言って4、5分で下りてしまうこともしばしばだった。そのたびに森繁は彼を懸命になだめた(※6)。

 志ん生の世話に追われながらも森繁は才覚を発揮する。あるとき、放送局のお偉方を料亭に集めて猥談会が催されると、彼は志ん生と圓生と小噺を順番に披露し、客たちを釘づけにした。その夜はみんなすっかりへべれけとなり、志ん生は森繁におぶわれて宿に帰ったという(※7)。森繁はほかの宴席でも、余興で歌ったり、即興でしゃべったりと、見事に座を盛り上げた。それに志ん生はすっかり感心し、《あんたは、こんなところでマゴマゴしてる人間じゃァないよ、東京へ来て、寄席へでも出たら、きっと売り出すよ。あたしが太鼓判押したっていい》とほめそやしたとか(※4)。

1913年生まれの森繁久彌(1955年撮影)©文藝春秋

8月15日の朝に志ん生が見た「いやな夢」

 8月に入ると、再び満芸の仕事で、志ん生は圓生と二人会で各地をまわることになる。だが、奉天(現・瀋陽)に泊まった翌朝(8月9日)、ソ連の参戦を知る。その夜には、それがいやで東京から逃げてきたはずの空襲警報のサイレンでたたき起こされ、逃げ回るはめとなった。それでも満芸は二人会を続行させ、今度は大連に行けと言う。2人は迷った末、大連行きの切符が縁起物のような気がするという志ん生の一声で、奉天から急行に乗る。それが大連行きの最後の急行になったと、彼らはあとで知った。

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1910年頃に三遊亭小圓朝に入門した志ん生(1961年撮影) ©文藝春秋

 大連で迎えた8月15日の朝、志ん生は圓生に、前夜に変な夢を見たと話した。その夢とは、志ん生が吉慶堂李彩(きっけいどう・りさい)という中国人の奇術師の荷物を持ってやって、祝儀に5円をもらったというものだった。李彩はその年の3月10日の東京大空襲で死んでいた。いやな夢だねと2人で話していたところ、その日の正午、玉音放送で日本の敗戦を知る。1週間後の8月22日にはソ連軍が大連に進駐してくることになった。その前日、現地の日本人たちがお別れの会を開き、2人は頼まれて一席ずつ演じたが、誰もくすりとも笑いはしなかったという。