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『いだてん』でも描かれてきたように、志ん生は長らく不遇のため貧乏暮らしを続け、名前も何度も変えてきた。それが1939年に志ん生を襲名すると、しだいに暮らし向きもよくなった。少年時代から寄席通いしていた作家の色川武大によれば、当時の志ん生は《いつもコンスタントに客席を沸かす人、という印象だった》という(※3)。それでも本格的に人々に愛されるようになったのは、戦後、満州から引き揚げてきてからのようだ。また、彼は満州に行ったことで芸人として一回り大きくなったともいわれる。ここでは、本人や圓生の証言などをもとに、志ん生の満州行きを振り返ってみたい。

志ん生が終戦前の満州に行くことになったワケ

 志ん生は1945年4月13日の空襲により、神明町(現在の文京区本駒込)にあった自宅を失った。まもなくして、贔屓の客が世話してくれて駒込の動坂(現在の文京区千駄木)の家に移るも、このころには東京の寄席もあらかた空襲で焼けてしまっており、志ん生はほぼ開店休業状態であった。そこで地方での仕事を求めて松竹の演芸部を訪ねると、満州に慰問団を送る話を聞き、自ら望んで参加することになる。

 志ん生によれば、満州行きに妻のりんや娘は反対したが、当時弟子となっていた長男の清(のちの金原亭馬生)は《もう、落語なんぞやって、ノンキなことをいってる時じゃァない。いま、向こうに行けるというのなら、そりゃァ行ったほうがいいよ》と後押ししてくれたという(※4)。ただし、長女の美濃部美津子は、りんが止めたのに対し、自身は《父ちゃん、あっちへ行けば空襲はないし、お酒だって飲めるんだから行っといでよ。ひと月でも行ってくれば、その間に戦争も終わるわよ》と言って送り出したと書いている(※5)。美津子には、空襲を怖がる父親がかわいそうに思われたらしい。

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1890年生まれの志ん生(1961年撮影) ©文藝春秋

 こうして志ん生は家族に送られながら、1945年5月6日、前出の三遊亭圓生、講談師の国井紫香のほか、漫才師2組、浪曲師と三味線弾きの夫婦とともに、松竹からは世話役が一人ついて上野駅を発った。志ん生は翌月には満55歳となろうとしていた(圓生は彼のちょうど10歳下)。下関から韓国の釜山に渡る関釜連絡船は、敵の潜水艦に攻撃される恐れから、すでに運航が中止されていたため、新潟から船で朝鮮半島に渡り、そこから鉄道で満州に入るという旅程であった。

志ん生とともに満州に行った圓生は1900年生まれ ©文藝春秋

「こんな客じゃ落語はできない」ワガママな志ん生をなだめた大物俳優

 満州では、満州映画協会(満映)と満州電信電話(満州電電)が出資する満芸という興業会社と契約を結び、新京(現在の長春)を振り出しに各地で兵士たちを前に落語を演じながらまわった。7月5日には新京に戻り、満芸との契約は終わる。そのまま日本へ帰る予定だったが、肝心の船便がなくなっていた。

 次の船の出るまで待機を余儀なくされた志ん生たち一行は、今度は満州電電傘下の新京放送局の仕事を引き受け、満州電電の出先機関の社員や家族の慰問のため各地をまわった。このとき一行の引率を担当したのが、このころ新京放送局のアナウンサーだった俳優の森繁久彌(当時32歳)である。