『いだてん』でも描かれてきたように、志ん生は長らく不遇のため
志ん生が終戦前の満州に行くことになったワケ
志ん生は1945年4月13日の空襲により、神明町(現在の文京区本駒込)にあった自宅を失った。まもなくして、贔屓の客が世話してくれて駒込の動坂(現在の文京区千駄木)の家に移るも、このころには東京の寄席もあらかた空襲で焼けてしまっており、志ん生はほぼ開店休業状態であった。そこで地方での仕事を求めて松竹の演芸部を訪ねると、満州に慰問
志ん生によれば、満州行きに妻のり
こうして志ん生は家族に送られながら、1945年5月6日、前出の三遊亭圓生、講談師の国井紫香のほか、漫才師2組、浪曲師と三味線弾きの夫婦とともに、松竹からは世話役が一人ついて上野駅を発った。志ん生は翌月には満55歳となろうとしていた(圓生は彼のちょうど10歳下)。下関から韓国の釜山に渡る関釜連絡船は、敵の潜水艦に攻撃される恐れから、すでに運航が中止されていたた
「こんな客じゃ落語はできない」ワガママな志ん生をなだめた大物俳優
満州では、満州映画協会(満映)と満州電信電話(満州電電)が出資する満芸という興業会社と契約を結び、新京(現在の長春)を振り出しに各地で兵士たちを前に落語を演じながらまわった。7月5日には新京に戻り、満芸との契約は終わる。そのまま日本へ帰る予定だったが、肝心の船便がなくなっていた。
次の船の出るまで待機を余儀なくされた志ん生たち一行は、今度は満州電電傘下の新京放送局の仕事を引き受け、満州電電の出先機関の社員や家族の慰問のため各地をまわった。このとき一行の引率を担当したのが、このころ新京放送局のアナウンサーだった俳優の森繁久彌(当時32歳)である。