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2019/10/13

「志ん生は満州で死んだらしい」

 そのうちに住居の都合で志ん生と圓生は別々になった。志ん生は現地で知り合った人たちから世話を受けながら、帰国する日を待ち続けた。やがて引き揚げ船が出るとの知らせを受けたが、病人と老人・子供・女性が優先されたため、なかなか乗る順番は回ってこない。ようやく船に乗れて大連港を出航したのは、満州に渡って足かけ3年が経った1947年1月12日のことだった。それまで志ん生が家族に手紙を送ったのは一度だけ、日本では「志ん生は満州で死んだらしい」という噂まで出始めていたという(※5)。

 帰国してからも騒動は続く。九州の1月24日には長崎県の佐世保に着き、すぐに東京の自宅に「二七ヒ[引用者注:日付]カエル、サケタノム」と電報を打ったものの、これがどういうわけか自宅には「二五ヒ、サッポロニツク、ムカエタノム」というふうに伝えられてしまう(※9)。志ん生に言わせると、電報の係が「酒を頼むとは何事だ」と心証を悪くして、書き替えたのだろうというのだが……(※4)。行き違いはあったが、志ん生はついに1月27日、自宅に帰った。このときのことを美津子はこう記す。

《お母さんがひょいって見ると、ヨレヨレの中国の人が着る服着た色の真っ黒い人がヌーッと立ってる。お母さん、もう仰天して「ヒャッ」っと声出したら、その人が「俺だよ、俺」って。それがお父さんだったんです》(※5)

 志ん生はそれからほとんど休む間もなく、2月に入ると新宿末広亭の高座に上がった。開口一番、「ただいま帰ってまいりました」とあいさつすると、客から一斉に拍手が起こり、彼は生きていてよかったとしみじみ思ったという(※4)。3月には一歩遅れて圓生も帰国した。同月には志ん生は上野鈴本で独演会を開き、大勢の客が集まった。こうして志ん生は、満州で辛酸を舐めながらも芸人として一段と大きくなり、50代半ばにして人気が爆発するにいたったのである。

1963年に撮影された志ん生一家(志ん生は左から2番目) ©文藝春秋

※1 『週刊文春』2019年5月2・9日号
※2 『テレビブロス』2019年11月号
※3 色川武大『寄席放浪記』(河出文庫)
※4 古今亭志ん生『びんぼう自慢』(ちくま文庫)
※5 美濃部美津子『志ん生一家、おしまいの噺』(河出文庫)
※6 結城昌治『志ん生一代(下)』(小学館P+D BOOKS)
※7 三遊亭圓生『寄席育ち』(青蛙房)
※8 三遊亭圓生『浮世に言い忘れたこと』(小学館P+D BOOKS)
※9 保田武宏『志ん生の昭和』(アスキー新書)

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