いまから20年前のきょう、1997年4月22日(現地時間。日付は断りがないかぎり以下同)、南米ペルーの首都リマで、前年末より左翼ゲリラのMRTA(トゥパク・アマル革命運動)に占拠されていた日本大使公邸に、ペルー当局の特殊部隊が突入した。このとき、人質のペルー最高裁判事と特殊部隊の兵士2人が死亡する一方、日本人24人を含む71人の人質は救出され、犯行グループのメンバー14人は全員射殺された。

顔をスカーフで覆い記者会見の席に現れた左翼ゲリラ、MRTAのメンバー ©共同通信社

 事件は前年、1996年12月17日、天皇誕生日の祝賀レセプションの最中に起きた。MRTAは収監中の仲間の釈放を求めて公邸を占拠、青木盛久大使をはじめ各国の要人、企業関係の邦人ら、最大約600人を人質にとった。

 当時の首相・橋本龍太郎はその日、国連大学で行われた国連加盟40周年記念式典を終えて、官邸に戻る執務車に入った途端、事件発生の第一報を受けた。首相官邸には、1995年の阪神・淡路大震災後に危機管理のためのオペレーションルームが設けられていたものの、それは国内対応のものだった。そのため、橋本はもっぱら外務省のオペレーションルームで情報収集にあたることになる(五百旗頭真・宮城大蔵編『橋本龍太郎外交回顧録』岩波書店)。外務省にアンパンを差し入れ、「アンパン宰相」などと揶揄されたのはこのときである。もっとも、橋本はもともと差し入れをして労うのが好きだったという。「ただ、自分が総理大臣だということを忘れて、自分で銀座の木村屋に行ってしまう。せめて事前に連絡すればいいんですがね」とは、夫人の言だ(橋本久美子『夫 橋本龍太郎 もう一度「龍」と呼ばせて』産経新聞出版)。

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橋本龍太郎首相とペルーのフジモリ大統領 ©共同通信社

 このあと、赤十字の呼びかけで、MRTAは人質のうち女性や高齢者などを解放する。だが、それも72人を残したところでやんだ。リーダーのセルパは、「われわれの要求を飲まないかぎり、これ以上人質は解放せず、このまま最後まで運命をともにしてもらう」と宣告する。

 橋本首相は事態打開のため、ペルーのフジモリ大統領と交渉を進めるも、日本側があくまで人命最優先で、MRTAとの交渉を促すのに対し、ペルー側は突入も辞さない強硬姿勢だった。その後、MRTAのメンバーを第三国へ出国させる案が浮上し、キューバが受け入れ姿勢を示したものの、ペルー政府がMRTA側の要求を拒否したため実現しなかった。

 この間、ペルー当局は公邸周辺に突撃用の地下トンネルを掘り進めていた。だが、3月6日になって、MRTAの知るところとなり、以後、対話を拒否されてしまう。事態は膠着したまま、4月22日午後3時23分(日本時間23日午前5時23分)、MRTAのメンバーが公邸1階のサロンでミニサッカーに興じているところへ、ついに特殊部隊が突入。人質たちはようやく死の恐怖から解放される。事件発生から127日目のことだった。