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 64歳だった母は、こうして脳血栓で倒れた後、13年半もの長きにわたり、重い失語症と片麻痺を抱えて日々を送った。最後の2年はほぼ寝たきりの生活になった。娘の私は、母の介護とその後の老父の介護を含めて21年に及ぶ介護生活を続けることになった。母は遠くの専門病院でリハビリを受けることになったが、言語治療士が不足していた時代で、母の失語症治療も手探り状態。医師から「家族が自力でやりなさい」と言われ、言語治療の本を買い自己流で対応するしかなかった。

 なかなか効果は得られず、運動機能の回復に一途に期待をしていた。ところが、少し母が杖で歩けるようになったというときに事故が起きた。リハビリ中に担当者が同僚と喋って目を離していた隙に、母が転倒。リハビリは中止。入院可能期間が過ぎたと、退院を迫られた。事故は伏され、謝罪もなかった。

 自宅での介護生活が始まったが、母の絶望状態は深刻だった。紐をベッドのマット下に隠し、深夜にそれで自死しようとするのだ。

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 私は母に泣いて頼んだ。つらい気持ちはわかる、でも死なないで。それをされたら私も父も幼い息子もみんなが傷ついて、ちゃんと生きていけなくなる、と。

日本オムツ外し学会を取り上げた北海道新聞の記事

 母は左手でたどたどしく日記を書くようになった。リビングの真ん中を母の車椅子の場所にし、私は母に必死で話しかけた。母はうなずいたり、苦笑したり、表情で気持ちを伝えてくれるようになり、お互いの思いが次第に通じ合えるようになっていった。

母の尊厳が傷つけられてしまう

 そんな中、私に父が言い続けた。

「仕事を続けなさい」

 私は頑張り続けたが、息子に激しいチック症状が出て、カウンセラーに相談に行けば、「母親が働いているなんて最悪」と断罪され、私は慢性胃潰瘍に苦しみ、貧血で路上で倒れた。

 それより一番、心がズタズタにされたのは、週一で派遣されてくるヘルパーさんが、母を見るなり「おばあ~ちゃん」と抱きついたり、赤ちゃん言葉でしゃべったりすること。悪意がない分悲しく、このままでは母の尊厳は傷つけられ、また生きることに絶望してしまう、と思った。

 再チャレンジのために連れて行ったリハビリ病院も家族には厳しかった。

「あなたは介護を休みラクしたいのでしょうが……」

 仕事の調整ができず、母を一日だけ頼んだショートステイでも、施設の玄関から迎えの車までの数メートルだけ手を貸して欲しいと頼んだら、玄関を一歩でも出たらこちらの業務外なので「別途、役所にヘルパーを頼め」と断わられた。

 医者までもが、言わないでほしいことを平気で本人の目の前で言うのだ。どうせ本人は分かりっこない、とばかりに。