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 最後の2年半は、寝たきりになった母を介護し、家族と共に看取ってくれる老人ホームに出会うことができた。私と父は神奈川から都内にあるホームの近所に住み替えて通い詰めた。

 けれど、やっと出会えたその介護老人ホームでも、実習で来た女子学生が母を見るなり「怖いっ」と逃げ出した。医者が「もう駄目だね、“胃ろう”にするかあ」と言うので、母がぽろぽろと涙をこぼした。それを見て私も泣くと「なんで、この人まで泣いてるの?」という言葉が返ってきた。世間は介護される高齢者を一人の人間として配慮をもって丁寧に扱わない、そのことが心底身に沁みた。

 そして母が逝くと、ショックで父は急に衰え、数年後には母の居たホームに入居することになった。

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清掃係の女性が「この病院から早く出さないと」

 父の体調が急に悪化して救急車で運ばれた老人病院で見たのは、ゾッとする光景だった。ベッドと椅子一脚がかろうじて入るベニヤで仕切られた狭い部屋が、料金のかかる個室と称され廊下の片側にずらりと並んでいた。その一つひとつに、寝たきりの高齢者がチューブでつながれて寝かされていたのだ。

 清掃係の女性が私にささやいた。

「この病院から早く出さないと、お父さんは死んじゃうよ、早く、早く」と。

 なんとかその病院を脱出し、移った先の病院では点滴の際にはベッドのサークルに手を縛られ、意味もなく拘束着なるものを着せられたりした。

 私は強引に父をホームに連れ戻した。医療を捨て、ホームでの「ひと匙ずつの重湯」から始める丁寧な個別介護を選んだのだ。

©iStock.com

 父はみるみる回復し、2年後の2008年、“胃ろう”も過剰な点滴も拒否し、娘の私に手を握られておだやかに逝った。ちなみに救急車で運ばれた老人病院は、数年後につぶれた。

 親の介護を終えると、私は60歳になっていた。息子は自立して家族を持ち、今度は私自身の介護をどうするか、自分で考えねばならない年齢に至っていた。

 介護を長く続けると、多くの人が介護後遺症で鬱に陥ったり、長期の離職で貧困に陥ったりする。この間、私が「物書き」という究極の在宅ワーカーとしてなんとか経済自立できたのは、ほとんど奇跡のような幸運だった。

 けれど、いつまでも介護へのこだわりからは自由になれなかった。これは介護体験を生かすしかないと、6人の女性で取材チームを作り、現場の介護士たちの聞き書きを始めた。それは「介護職に就いた私の理由」というタイトルで、ウェブサイトに3年間にわたって連載された(2018年、『100歳時代の新しい介護哲学』として現代書館より出版)。

 介護の実情を現場で取材をしながら手探りで学んでいく。この過程で、私はさまざまな介護職の人たちと出会うことになった。