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「3代目姐」妻・文子

「姐さん」という立場で、かつて最も有名だったのは3代目山口組組長、田岡一雄の妻、文子が上げられる。

 文子は田岡死去後、統制の乱れが危惧された山口組内で組長と同等の権威を備えているとして、兵庫県警が「3代目姐」と認定していた。権威だけでなく事実上、権力を掌握し山口組を率いていた「首領」との位置付けだった。

 兵庫県警が文子を「3代目姐」と認定した背景には、巨大組織である山口組の組長の後継争いがあった。

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 田岡は戦後間もない1946年に組長に就任すると、全国各地に進出し、それまでは神戸市の地方組織に過ぎなかった山口組を国内最大組織へと拡大させた。山口組内だけでなく、全国の暴力団組織の間で現在もカリスマ的存在として知られている。

 その田岡は1981年7月、68歳で死去した。4代目組長として有力視されていた山口組ナンバー2の若頭、山本健一も後を追うように翌82年2月、死去する。56歳の若さだった。そこで兵庫県警は同年6月、文子を3代目姐と認定したのだ。

3代目山口組組長の田岡一雄 ©共同通信社

 後継の行方が注目されるなか、山口組若頭補佐で竹中組組長の竹中正久が山口組若頭に就任すると、同組内の実力者であった山広組組長の山本広が対抗して山口組4代目組長に立候補を宣言。後継問題は混迷を極めた。

 しかし、文子はここで竹中を推した。1984年6月、竹中の4代目就任が正式に決定すると“山広派”は記者会見を開いて、竹中就任を認めないと宣言。山広派は山口組を脱退し「一和会」を結成した。こうした情勢下で同年7月、竹中の4代目襲名が披露されて、対立の構図は鮮明となった。

 4代目体制がスタートしたが、1985年1月、竹中は大阪で一和会のヒットマンによって射殺される。同行していた山口組若頭の中山勝正ら最高幹部2人も同時に殺害された。以後、暴力団抗争史上最悪の「山一抗争」が激化。双方で死者25人、重軽傷者約70人とまさに最悪の事態を招いた。

 山一抗争のさなか、竹中が殺害された約1年後の1986年1月24日、文子は死去した。山口組が山一抗争の終結宣言を出すのは、その1年余り後の1987年2月のことだった。その後、一和会は解散を宣言することとなる。