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「1万人の母親」という気持ち

 田岡が生前に著した「山口組三代目 田岡一雄自伝」の巻末に文子が手記を寄せている。そのなかで、次のように綴っている。

「わたしは二人の(実の)子の母であると同時に、数多くの組員から『姐さん』と呼ばれる母親の立場でもあります。家庭のことも大切で、たえずその内外の動きに心を痛めてまいりました」

 山口組内の若い衆については、「躾の面ではかなりきびしくしてきました」と記述。夫である田岡については、「主人はわたしよりも若い者の方が大切なのか、と腹もたち、悲しくもあり」と妻としての心情も明かしている。

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山口組の竹中正久組長射殺事件に使用された拳銃と実弾(大阪市の大阪府警本部) ©時事通信社

 文子が生きた時代は、山口組が全国に進出し各地の組織と対立が相次ぎ、警察は山口組を最重要捜査対象として取り締まりを強化していた。それだけではなかった。組織が巨大化していくに従い、山口組内部で派閥争いが激化し、山一抗争を招くなど、まさに激動の時代だった。

 当時の様子を伝え聞いている、関西地方に拠点を持つ指定暴力団の幹部は次のように述べている。

「当時の山口組は約1万人の組員がいた。文子姐さんは自分について、『1万人の母親』という気持ちがあったのだろう。外部では警察は山口組を壊滅させると意気込んでいたし、内部では子分たちの母という重い立場。組長死去後の3代目姐という影響力は大きかった。それだけに内外のプレッシャーがあったはずだ」

(敬称略)