後輩から電話
後輩たちは自分たちが無視されたと感じたようで、私はビルの裏でこのように責められた。その後、リーダーの少年は補導され、それを機に私は、このグループの集まりには参加しなくなった。それから数カ月たったある週末のこと、いつものように繁華街で他の暴走族の取材をしていると、私に出入り禁止を言い渡したあの後輩から電話がかかってきた。
後輩 おい、打越、おまえ、いまどこなあ。
――(広島)市内にいますよ。
後輩 おおー、よかった。おまえ、花買ってきてくれんか?
――おお、どしたん?
後輩 今日、先輩の引退式なのに、花買うの忘れて困っとるんよ。
――でも、おれ、出入り禁止なのに大丈夫?
後輩 ええわいや、そんなこともう忘れたわ。
――おっ、マジで? なら来週からまた通ってええ?
後輩 ええ、ええ、好きにせえ。花買って来いよ。
――わかった、ええの買うて持ってくけん、待っといて。
私の出入り禁止もとけて、翌週から再びこの暴走族で行動をともにすることができた。禁じられていた録音データの使用も認められた。その後も、ことあるごとに、私の“非常識ぶり”は、みんなの前で暴露されることになった。中でも、ビルの裏に連れて行かれて私がビビった表情をしていたこと、取材中に私服警官に連行され取調室で事情聴取を受けたことは定番のネタで、後輩たちの前で何度も披露された。こうした経験を通じて私は、パシリとして調査を進めることは、自分に合っていると考えるようになった。パシリとして失敗をしても、それがきっかけとなって、彼らとより深くかかわる契機になり得ると気がついたのである。広島市でのこうした経験を経て、2007年に私は沖縄へ向かった。沖縄で出会った不良少年たちのことが忘れられなかった。なにより、彼らの現実から沖縄を考えなければ、先に進めない。そう思った。
響き渡る爆音―沖縄調査1日目―
2007年6月21日、私は沖縄での調査を始めた。那覇市内のゲストハウスに拠点を据えた。フィールドワークをすすめるために、まずは移動手段として原付バイクをレンタルショップで手配した。メモ用紙、ボールペン、ICレコーダー、デジタルカメラ、パソコンをリュックサックに詰め込んで、原付バイクにまたがって調査に出発した。夜の11時を回っていた。