謝罪することで過去の報道も否定される、と私も意地を貫いた。ジャニーズ事務所の大きすぎる影響力によって、「文春は謝った」と拡散され、そう認知される可能性もあるうえ、裁判で協力してくれた方に申し訳が立たない。私にとってはメリー氏の抗議よりもそっちの重圧が苦しかった。途中何度かその場を出ようとしたが、そのたびに「逃げるな」「話は終わっていない」となった。
「いいから、もうメリーさんに謝っちゃってよ」
終盤トイレを借りた際に、役員のS氏が追ってきて、「いいから、もうメリーさんに謝っちゃってよ。謝ればいいだけの話じゃん。俺も早く帰りたいんだから」と本音を漏らした。やっとのことで抜け出した私と同僚記者は、イルミネーションの輝く厳冬の六本木に立ち尽くし、精も根も尽き果てた。謝罪は最終的にしなかったもののノックダウン寸前だった。
長くなってしまったが、抗議体験はそのくらいのインパクトだった。その後、先日お亡くなりになった前・文藝春秋社長の松井清人氏から労いの言葉をいただいた。
「大変だったな、メリーさん強烈だろう(笑)。俺も呼び出されて抗議されたことがあって、ジャニーズ事務所の“説教部屋”に行くことになった。彼女は鬼のような形相なんだけど、笑っちゃったのがさ、腰かけていたのが大きなミッキーマウスの椅子だったことだよ」「ミッキーマウスですか?」「そう。背もたれがミッキーの顔で、肘掛けがミッキーの白いグローブみたいな手だ。本人はディズニーが好きみたいなんだけど、あれには驚いた」。
“ジャニーズ以前”はどんな人生を送っていた?
そんなギャップのあるエピソードを聞くと、俄に魅力ある人と面白がってしまうのが私の性分である。メリー氏は戦前ロサンゼルスに在住、1933年に日本へ一時帰国、戦後再渡米。1957年に日本に再帰国し、四谷に「スポット」というスナックを開業し生計を立てていた。そこの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔氏との間に藤島ジュリー景子氏をもうけた。夫の藤島氏はメリー氏を「瞬間湯沸かし器型の感情の激しい人だが、実に女」と評している。
「メリーさんはアメリカ的な感覚がある一方、古風な日本女性でもある。事情があって、ジュリーさんを生んだ時ひとり親として育てるつもりだった。戦前から戦後の激動期を生き抜いてきた強かさが彼女にはある。いろいろ苦労もあったのですが、人に弱みを絶対に見せなかった」(ベテラン週刊誌記者)
本当はメリー氏から、交錯するふたつの国での苦労話を聞きたかったのだが、仇敵扱いゆえそれは叶わなかった。言動から「敵か味方か」で判断する傾向が垣間見え、裏切り者(敵)は許さないという姿勢だったが、それは生き馬の目を抜く厳しい芸能界で培ってきた昭和風のやり方だったのかもしれない。一方で、弟や娘、「うちの子」と呼ぶタレントに対しての愛情は果てしなく深いように思えた。