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「女性女系天皇容認」に寛容だった男性の指導者

 大日本帝国憲法と旧皇室典範が公布されたのは、1889(明治22)年。当時の皇室典範は、憲法と同格とされ、帝国議会が定めるような法律とは異なっていた。

 明治憲法において天皇は「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」「天皇は神聖にして侵すべからず」と位置づけられ、さらに「皇位は皇室典範の定むるところにより皇男子孫之を継承す」とされ、憲法の条文においても「男子」と定められていた。

伊藤博文

 しかし、敗戦後の1947(昭和22)年に施行された新憲法において天皇は「日本国の象徴」となり、「皇位は世襲のもの」「国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とされ、「男子」の文字は憲法から消える。

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 一方でこの時、旧皇室典範に代わって新たに施行された新皇室典範は、まず「憲法と同格」という位置づけから、憲法の下位にある一法律となった。その際には名称を「皇室法」に改めるべきだという議論もあったが、「皇室典範」の名称は残され、内容にも抜本的な変更は加えられず、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」という文言もそのままとされた。

 新憲法では「皇位は世襲」とのみ記され、一法律である皇室典範には「男系の男子」という縛りがあるのだ。

 新憲法の14条では、「すべて国民は法の下に平等」であり、性別により差別されてはならないと謳われている。そのため当時から、「皇位を『男系の男子』に限定する新皇室典範は憲法に違反しているのではないのか」という声があった。

 振り返って見ればこれまでも、「女性女系天皇容認」に寛容な態度を示した男性の指導者はいた。古くは初代総理大臣の伊藤博文、そして記憶に新しいところでは、小泉純一郎元総理——。

小泉純一郎氏 ©文藝春秋

 今から約15年前の小泉政権では、皇室典範改正に向けた議論が国会で繰り広げられた。

 2004(平成16)年当時、皇太子(現天皇)夫妻の間には、愛子さましかおられず、雅子さまは40歳を超え、「適応障害」というご病状が発表されていた。一方で秋篠宮家、三笠宮家、高円宮家にも男子の跡取りはおられなかった。

 間もなく40歳となる秋篠宮さまよりも若年の男性皇族が、ひとりもいない。皇室典範における男女差別を改正するという意味合いからではなく、男子に縛っては皇位継承者がいなくなってしまうという切迫した状況から、小泉政権下での議論は始まったのだった。