直潭小学校4年生の時に6年生の学習を終えた私は、母と弟と一緒に、博士号を取得するためにドイツで勉強していた父のもとへ行きました。
台湾で私は、健康状態は良くなかったものの語学力は高く、「理解できない」「話せない」などという経験はありませんでした。しかし、ドイツに来てみると、ドイツ語はまったく話せないし、読めないし、初めて文字が認識できないという経験をしました。
私が通っていた小学校はフランスとの国境近くにあったため、ドイツ人のクラスメイトはドイツ語だけでなくフランス語も学んでいました。数学のクラスは微分積分に達していましたが、私はすでに理解していたのでそれを免除されていました。しかし、地理、歴史、ドイツ語、フランス語など、言語を必要とする科目はどれもできませんでした。また私は病弱で、運動もあまりできないので、これらの科目ではランキングの真ん中から後ろの方に入っていました。しかし学校では、言葉の通じない私に気を配り、さまざまな面でサポートしてくれました。
ドイツに行く前は、「心身の障害」というのは特定の人たちのことだと思っていました。私は心臓病を患っていますが、「心身の障害」とみなされる基準を満たしていませんでした。ドイツに行ってから、あるときふと気づくと自分が「認知機能障害」の人になっていたのです。
その後、「心身の障害」は一時的な状態として誰にでもあり得るかもしれないと気づきました。携帯電話の小さな画面に集中している人は、外の世界に注意を払うことができず、一時的な認知機能障害になっているかもしれません。
自分の認識がひっくり返った瞬間でした。このことに深く気づいてからは、自分が提供したいサービスをさまざまな形で仕事に反映させることを意識するようになりました。サービスに合う人ではなく、「その人に合うサービス」であり、それがいわゆる「多様性」と呼ばれるものであると感じています。
多様性とは、特定のグループの人々を大切にするだけではなく、多くのサービスが常に多様な価値を持っていることです。
振り返ってみると、ドイツでの経験が、「異なる状況にある人々すべてを包み込む」ことに目を開かせてくれたのであり、それが後に「多様性」を学ぶことに繋がったのです。
人の価値は財産ではなく、他人と分かちあったものの量
小学校6年生の時にドイツから帰国してすぐに、母が立ち上げた「シードアカデミー」(種籽[種をまくの意]学苑)という自主学習塾の手伝いを始めました。
学校を始めるにあたっては、烏来の丘陵にある信賢小学校の校舎を借りました。この学校がある場所は、原住民族タイヤル族の地域だったので、そもそもタイヤル族の子供が多い学校でした。
小学校の担任であった林義賢先生は、自分自身も集落の長でしたから、学校で自然の中でのサバイバルの仕方やタイヤル語を教えるのは、とても自然なことでした。
「郷に入っては郷に従え」で、林先生がタイヤル族について話すのをよく聞き、その価値観や世界観についても学びました。
まず印象的だったのは、彼らが文字に執着していない点です。ある知識が伝えられていく際に彼らが気にするのは、それが最も適切な方法で伝えられているかどうかです。彼らは五感を組み合わせて完璧に伝えたいと考えていて、目で見る文字だけに頼ることはしないのです。
これは、私にとってまったく新しい考えでした。私は漢字文化圏の中で育ちましたので、この文化圏では、教育システム全体が文字での表現に固執しています。まるで、最後に文字にならないものは存在せず、力を費やして学ぶ価値がないかのようです。しかし、タイヤル族の場合はそうではありません。口から耳を通して伝えられていく経験も同様に貴重なものであり、実践的な知恵として伝えられることも多いのです。
もう一つ印象的だったのは、部族の間では資産の多さではなく、世話をした人や動物の数でその人の地位が決まることです。
つまり、人の経歴や社会的地位は、どれだけの財産を持っているかではなく、何を与え、何を分かち合い、地域のために何を創造し、どれだけ多くの人を世話する能力があり、どれだけ多くの命を養うことができるかで決まるのです。資源を持っている人は、それを自分のために溜め込むのではなく、共有することで、部族内での評価を高めていきます。
その時から、人の価値は蓄財の多さではなく、その財産をどれだけ人に分け与えたかにあると思うようになりました。