再び駅に戻って跨線橋を渡り、駅舎のない南側の様子も見てみよう。銚子駅のような駅の片側にしか駅舎がないケースでは、駅舎の反対側はどちらかというと寂れていることが多い。果たして銚子駅では……と思ったら、跨線橋を降りてすぐの一角になんだかおしゃれな一戸建て住宅が集まっていた。
古い航空写真を見ると、このあたりはかつては駅の施設の一部だったようだ。つまりはその敷地が不要になったので売却し、そこに新しい一戸建て住宅が建てられた、ということなのだろう。
もちろん南側はそれ以外にも、びっしりと住宅地が広がっていた。北は利根川、南と東は太平洋という海に囲まれた銚子の町、人が暮らせる範囲は意外と狭いのだ。
太平洋に突き出たどん突きの町「銚子」がここまで栄えた理由
港町、そしてお醤油。全国に誇れるものがふたつもある銚子の町。なんとなく、犬吠埼の観光地、というくらいに思っている人も多いかもしれないが、銚子はかなり侮れない。太平洋にこぼれ落ちる寸前のどん突きの町が、なぜかくのごとく誇れるものを手にすることができたのだろうか。
その背景は、ふたつの要素で説明できるといっていい。ひとつは、銚子の沖合は親潮と黒潮がぶつかる地点であるということ。もうひとつは、利根川の存在である。
親潮は北から、黒潮は南からの海流で、それがぶつかる銚子沖は漁場としては最高に恵まれた環境だった。だから銚子が港町として発展するのはとうぜんの成り行きだ。
さらに、江戸時代にはこれらの海流を利用した東廻航路が整備された。仙台や秋田、津軽などからの蔵米は、東廻航路で銚子に集められたという(西廻航路の整備もあって思うほどは発展しなかったらしい)。
そしてこの海流によってつながっていた町は、遠く離れていても意外なほどに結びつきが強かった。航路の拠点である銚子はあらゆる町と海流を通してつながっていたのだが、とりわけ黒潮に乗っていまの和歌山県、紀州との関係が強かったようだ。