文春オンライン

2022/11/12

母は子どものようにそっぽを向いてしまう

(母さん、ごめん、本当にごめん。早く手を打たなかった僕が悪いんだ)

 僕は自分を責めながらも、この程度で済んでよかった、母の命が危険にさらされるようなことがなくて本当によかった、と安堵していた。

 大金を盗られたのは痛手だが、家が焼けてなくなったわけでも、人様に迷惑をかけたわけでもない。実際、2回目の400万円はすんでのところで盗られずに済んだじゃないか。

 僕は気を取り直し、振り込め詐欺に遭った経緯を母に説明した。順を追って、落ち着いて丁寧に説明すれば、何が起きたかくらいはわかるはず。そう思ったのだ。

 ところが、何度説明しても母は理解できなかった。「ああ、そう」「もういい、わかったわよ」という感じで、面倒くさそうな反応を示すだけだった。

 昔の母なら、こんなことはなかった。物事をうやむやに済ますことなど絶対になかった。母はとにかく几帳面で、問題を中途半端に放り投げるような人ではないのだ。

 ところが、この時の母はまるで違った。煩わしいことは考えたくないという調子で、子どものようにそっぽを向いてしまった。今にして思うと、これも認知症の症状の1つだったに違いない。

 要するに、何が起きたのか1つひとつの出来事は認識できても、それを結びつけて統合的に考えることができないのだ。普通なら「詐欺に遭った→ 警察に連れて行かれた→まずいことになった」とスムーズにつながるが、認知機能が衰えると、これが簡単にはできなくなる。認知症というと記憶障害をイメージしがちだが、こうした論理的思考の低下も大きな特徴の1つと言える。

倹約家の母、金の無心をしたことのない僕

 ちなみに、普段の母は倹約家だ。健全な経済観念の持ち主で、何百万ものお金を簡単に使ってしまうようなことは決してない。

 たまに高価な服を買うこともあったが、買うならバーゲン、正規の値段では絶対に買わないと豪語していた。「高い物を安く買う。安い物を高く見えるように着こなす。それが本当のおしゃれなのよ」と、よく僕の妻にも話していた。

 ついでにもう1つお断りしておくが、僕は母にお金を無心したことは一度もない。

 女性問題で心配をかけたことも、もちろんない。

 そりゃ、結婚前はそれなりにいろいろあった。小学生の頃は近所や同級生の女の子たちから、手紙や誕生日プレゼントをよくもらっていた。研修医時代には、複数の女性から電話が来ることもあった。

 ひょっとすると、母はこういうエピソードを覚えていて、「女性問題で困っている」という詐欺師の言葉を鵜呑みにしてしまったのかもしれない。多少なりともモテていたのはあくまで昔の話なのだが、母の頭の中では、僕はいまだに「モテる息子」として記憶されているのかもしれない。

 僕としては悪い気はしないが、そのことが振り込め詐欺の被害につながったのだとしたら、手放しで喜んではいられないのだ……。