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「永遠に素朴でいてほしい」という謎の圧力

 さらにです。もしかしたらこちらのほうが根は深いかもしれない、「素朴な女の子は永遠に素朴な女の子のままでいてほしい」という、謎の圧力もあるように思われます。『木綿のハンカチーフ症候群』とでも言ったらいいのか。ハウス北海道シチューの女の子には、指輪もいらない、口紅もつけない、自分を捨てた恋人に金銭ではなくハンカチを要求する女性であってほしい。高梨選手はこうした「あたしアスリートだから」幻想と「都会の絵の具に染まらないで帰って」圧力を、ダブルで背負わされてしまったように思うのです。

金メダルのルンビを見つめる ©JMPA

 もし高梨選手が元々ゴリッゴリの鬼ギャルだったら……このようなバッシングは受けていなかったんじゃないでしょうか。なぜならゴリッゴリの鬼ギャルはこええから。言うこと聞かなそうだから。コントロールできなさそうだから。そう考えると、別に生活の面倒見てくれるわけでもないのに勝手な願望ばかり押し付けてくる「国民」に、高梨選手はオルチャンメイクで「NO」という意思表示をしているようにも思えてきます。

愛車「メルセデスAMG G 63」と(「メルセデス・ベンツ・マガジン」2017年冬号より)

愛車のベンツもとやかく言われ

 メイクのみならず、愛車の「メルセデス AMG G 63」にまでとやかく言われていたのも解せないですよね。特に「20歳そこそこの娘が乗る車ではない」という分かりやすい嫉妬に紛れて散見された「ベンツのSUVは雪山を走るのに最適な車だから間違ってない」という、一見擁護の体を取りながらその実遥か上空からのジャッジメント。たとえば自分が酒を飲む、音楽を聴く、映画を観る、ちょっとおいしいもの食べる、服を買う、車に乗る、家を持つ……そういう日常の選択に対して「それでモチベーションが上がるならOK」とか「まだまだその身分ではない」とか、いちいち「許す」「許さない」の判断をされたらどうでしょう。なんでこっちのカネでやってることなのに、てめぇに口出しされんだよと、きっと校舎の窓ガラスのひとつも割りたくなるに違いない。それが分かっているのに、私たちは「国民」「視聴者」「ファン」などデカめの主語を与えられると、いともたやすく対象者にそれをぶつけるようになるのです。ナショナリズムの怖さって、こういうとこにもありますね。

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 とにかくもう、あんな高いところからすべってきて、100m以上も飛んで、なおかつ着地するんですよ。それってヤバくないですか? そんなことやろうと思うのがまずヤバくないですか? そもそも凡人の地平で語るべきではないんじゃないかと思ってしまいましたよ、ここまで書いといてなんだけど。

あんな高いところからすべってきて、100m以上も飛ぶ高梨 ©JMPA
戦い終えて ©JMPA