国から個人、イデオロギーから自由へ
つまり、中国の近代史において「青年」というものは国やイデオロギーに奉仕する者たち、もしくはそう期待されている者たちのことだったといえる。
それに対して、改革開放時代において、自分自身のために生きることが可能となった「80後」世代、そして彼らの感性を代表する作家たちにとって、重要なのは国や革命、人民といった「大きな何か」ではなく、あくまで個人としての内面や自由になった。
青年は国や革命といった大きなものを担うという役割から解放され、個人の内面や自由といった問題に取り組むようになったということである。
日本では「青春」はしばしば「モラトリアム」と呼ばれ、学生などが社会的な責任や義務を負うことなく、「あれこれについて悩み、いろいろな可能性に触れながら試行錯誤する時期」といった意味で捉えられてきた。
『スラムダンク』によって代表される日本のサブカルチャーが提供する「青春」のイメージは、まさに「あれこれの可能性について模索」し、自分にとっていちばん相応しい道を探すものとして、「80後」のそのような新しい個人の実現を目指す思春期にある若者たちに一つのモデルケースを提供したと考えられる。
『スラムダンク』というアニメの中でもっとも受けられていた要素の一つに「熱血」がある。
中国の近代史における青年はもちろん「熱血」だった。熱血がなければ革命して国を変えようなんて思わないし、できないはずである。若い紅衛兵たちはその熱血のために人の尊厳を踏みにじり、死に追いやることもいとわないほど「熱血」だった。
しかし、上で述べたように、その熱血が何のためのものか、大きなもののためか、それとも自分の自由のためかでだいぶ異なるものになる。
「80後」世代とそれ以降世代にとって重要だったのは、個人の自己実現である。それは仕事における成功であったり、学業における達成だったりする。頑張れば成功できる、ということが盛んに言われるようになった。
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楊駿驍氏による「映画『スラムダンク』に中国人が熱狂する理由」全文は、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。