私にとっても、このシーンには強い思い入れがある。
大学受験をする際、どの専門の学科を選ぶべきか悩んでいたとき、当然のごとく中国人の親族からは「将来性のある専攻」、ようはお金や権力につながるような進学先を選ぶように言われた。私のほんとうにやりたいことは文学だったが、中国人の両親からはきわめて無意味な進路に映っていた。日本にいる外国人という不安定な立場から、なんとか前途有望な専攻を選ぶべきだというプレッシャーもあった。
十代の私は、引き裂かれる思いのなか、現実逃避するように『スラムダンク』の漫画に読みふけった。そして、三井の「バスケがしたいです」というセリフを読み、文学専攻の学科に進学することを決心した。そうしなければ、三井のように後悔することになる――。
これらの価値観やイメージは、いずれもそれまでの中国の若者たちの生活では存在しなかったものだった。そもそも一つの事実として、中国の中学、高校には誰もが参加できる「部活」という制度は存在しなかったし、現在もごく限られた学校のみそれをもっている状態である。バスケットボールの交流試合から全国大会まで上り詰めていくという、青春を託すことができるような、はっきりとした目標や努力の“舞台”が存在しなかった。そして、バスケットボールといったスポーツがそのような舞台になりうるとも思われていなかった。
すなわち、『スラムダンク』は単に魅力的な物語を提供しただけでなく、それまで中国の若者の生活に存在しえなかった魅力的な“青春”を開示したのである。それは文字通り、「新世界」ともいうべきものだった。
2000年代に日本の漫画などのサブカルチャーは中国の民主化を促す「革命の道具」として機能する、とする議論さえ日本で出ていたが、それがあまりに楽観的に過ぎたことを中国の青年たちは後々になって知ることになる。
中国人にとって「青春」はファンタジーだった
中国では、「青春」という言葉は「80後」世代の中では「日本」のイメージと強く結びつけられている。
桜舞う校門、放課後の部活、海が見える帰り道、踏み切り(とその向こうに見える好きな異性)、文化祭、運動会、体育館裏での告白……。挙げていくときりがないのだが、こういった日本のアニメでおなじみの青春の記号は中国でも「青春」というものイメージの多くの部分を構成している。
しかし、日本ではそれらが現実をベースにしており、それなりのリアリティを持っているのに対して、中国の若者たちにとって身近にあるものでは決してないため、一種のファンタジーというか、憧れに近いものとなっている。
この「80後」世代の作家たちによる小説はしばしば「青春文学」や「キャンパス文学」と呼ばれていたことからもわかるように、「青春」は彼らの文学にとってもっとも重要なテーマの一つだった。そして、彼らが描く青春はそれまでの中国になかったものだった。
例えば、青春文学の旗手である郭敬明というアイドル作家が、日本のアニメの強い影響を受けているというのは中国では周知の事実である。そして、彼の会社に所属し、同じく青春に関する作品を多く執筆してきた作家の落落はかつて中国のウェブで日本アニメのレビュー記事を執筆していたし、日本を舞台とする写真集や小説を多く発表しており、本人も日本語が話せるという人物だ。
また、郭敬明が編集をつとめ、「80後」作家たちによる、世界各国の都市を巡るというテーマの紀行文集の人気シリーズがあるが、日本を取り上げた際、東京でも京都でもなく、『スラムダンク』の舞台でもある「神奈川」が舞台として選ばれている。そこに『スラムダンク』の強い影響が見て取れる。
では、なぜ彼らにとって日本のイメージと結びついた「青春」というものがかくも重要だったのだろうか。
ここで少しだけ、中国における「青年」の歴史の話をしよう。
そもそも中国の近代化が可能となったのは、西洋の知識を積極的に吸収し、中国の改革に用いた「新青年」たちである。歴史の教科書に必ず載る、中国を大きく動かした1919年の「五四運動」はまさに青年たちの運動だったし、その思想的、文化的な基盤を作ったのも『新青年』という雑誌だった。彼らの歴史的な使命は国を変え、救うことだった。
文化大革命時に毛沢東が動員したのも青年や少年たちだった。彼らは毛沢東の呼びかけに応じて、全国各地で闘争を繰り広げ、社会と文化に甚大なダメージをもたらした。彼らに期待され、そして彼らが引き受けていた役割は「新青年」のそれと同じく、国、もしくは世界中の抑圧された人民を救うことだったのである。革命のためなら自らを犠牲にすることもいとわない。