2019年2月、長崎は対馬の東岸から、1台の軽ワゴンが海に飛び込んだ。車は海の底へと沈み、運転していた男は溺死した。
西山義治、享年44。対馬農業協同組合(JA対馬)の職員だった。死の直前、西山には横領疑惑が持ち上がっていた。後の調査でその額は22億円にも達すると伝えられた。
「当時の報道では、西山が1人で不正を働いたことになっていた。JA対馬の記者発表をそのまま受けてのことだったのですが、はたして1人の職員にそれだけのことができるのか」
開高健ノンフィクション賞を受賞した『対馬の海に沈む』。著者の窪田新之助さんは、JAグループ・日本農業新聞の元記者だ。これまで『農協の闇(くらやみ)』といった著作で、JAという巨大組織を腐敗させる、構造上の問題に迫ってきた。
「現在のJAは、共済事業や信用事業に依存し、金融業者としての側面を強めています。『農協の闇』では、そこで過大なノルマに苦しむ職員たちのことを取り上げたのですが……」
西山もまさに、共済事業の営業を主な仕事にしていた。しかしながら、人口3万人ほどの離島で、毎年のように日本一の営業実績を挙げていた。驚くべきことに、西山が獲得したとされる契約者数は、累計で人口の1割以上に相当する。
「不正の全容もそうですが、なぜそれほどの実績を挙げられたのか、挙げる必要があったのかも明らかになっていませんでした。そこを知りたいという気持ちがまずありましたね」
窪田さんは対馬に赴き、JA対馬の関係者や顧客に取材を重ねた。西山に関する調査報告書などの資料も入手した。そうしてまとめられたのが本著だ。
「JAのシステムの問題を追及するという、これまでの仕事の延長線のつもりで始めた取材でした。でも、最初に取材した方から『あんなに面白い犯罪者っていないよ』と言われた。色々な方に話を聞き、資料を読み込んでいくうちに、人間的な面白さ、あるいは恐ろしさを感じるような事柄がどんどん出てきたんです」